神話の再神話化 [演奏家]
チューリッヒの安宿です。この街にはいくらでも転がり込む場所はあるのだが、そんなことしちゃうとまた動きが取れなくなるので、敢えて猛烈に物価が高い街の厳しさを味わってます。
さても、ここに来た理由は、今シーズンに4回だけ上演されるプフィッツナーの「パレストリーナ」を見物するため。なんせね、棒振ってるのは我らがメッツマッヒャーだしさ、それにドイツ語圏では案外と上演されているものの、なかなかきちんとした舞台を眺めるチャンスがない大作を一度くらいはちゃんと見物しておかないと、ということ。
80年代の初め頃だっけ、DGがどういう風の吹き回しか出したクーベリック指揮のトレント公会議がジャケットになったでっかいボックスのレコードを何度も聴いたのが懐かしいなぁ。まさかライブで聴けるとはねぇ。ほれ、カーテンコールじゃ。

んで、まあこんな作品の演出についてどうこう言っても、恐らくは日本語文化圏では1ダースくらいの人しかついて来ないだろーけど、全く気にせずに記します。わざわざこんなもの見物しに極東の島から来る奴なんて余程特殊な輩(なんせ昨日はバルトリが歌う「オリー伯爵」だもん、みんなそっちだわなぁ)、20世紀オペラのマニアか、トーマス・マン研究でもやってるドイツ文学の奴くらいだろーから、もうガンガンにネタバレで書きます。
演出はチューリッヒで「遙かな響き」なんかも出してる演劇畑の方です。ですから、この小ぶりな劇場をシャウシュピールハウスのように使ってます。あ、オケ、小さかったです。「パレストリーナ」といえば、まるで「パルシファル」みたいに弦楽器をタップリ鳴らす前奏曲ばかりが有名ですけど、ときたま日本のオケでも聴けるあのタイプの演奏を期待してると、管楽器がやたらと攻撃的に絡んでくる響きになってて、へええっと思った。メッツマヒャー御大というところもあるんだろうけどさ。
第1幕への前奏曲途中から幕が開くと、ローマの大きなアパートでパレストリーナがピアノの前に座って作曲しようとしてる。そー、「ピアノの前」ですよ!パレストリーナ先生のお部屋にはテレビもあります。1幕の最後に出てくる著名作曲家はジョスカンとかじゃなくて、シューベルトとかシューマンとかベートーヴェンとかヴァーグナーとかです。第2幕のトレント会議では、枢機卿のひとりが一生懸命携帯で電話してます。ま、よーするに、今の話になってます。
面白いのは第2幕のつくりで、トレント公会議の舞台はパレストリーナ先生のお宅なんです。って言うと、なんなんじゃ、と思うでしょうけど、実際の舞台ではそれが凄く説得力ある作りになってて(坊さん達が宿舎の安ホテルでいろいろやってるところを細かく演技で見せていて、ボロメオ司教はゲイだったり、いろいろ文句言う坊さんは業者から袖の下貰ってたり、手塚漫画の見開きページをじっくり眺めるといろんなことをやってる奴らが細かく掻き込んであるみたいな感じです)、まあこんなもんかと思える。
なんでそんな妙な仕掛けをしているかといえば、プフィッツナーの台本では第2幕には一切出てこないパレストリーナ先生がパントマイムで出ずっぱり。ボロメオ司教の画策ぶりを眺めてるばかりか、公会議そのものも横のソファーから眺めてるようにしてるんですわ。つまり、パレストリーナ先生、自分に新しいミサを書くように言ってくる話の裏を全部見通しちゃってるわけ。
んで、そのまま休憩無しに第3幕に入ると、オリジナル通りのパレストリーナ先生の部屋。いけしゃーしゃーと謝りに来たボロメオ司教をぶっ飛ばすとか妙なこともなく(教皇がホントに教皇のコスチュームで登場したのはある意味でビックリでしたが)ちゃんと話は進み、おやおや、このままおとなしく終わるのかい、と思ったら、これまた最後の最後に今日も大技をかけてきた。
プフィッツナーの台本では、「教皇マルチェルスのミサ」の大成功を受けパレストリーナは再び静かに創作に向かうのであった、という「パレストリーナ神話」を描いて大団円にしたわけですね。だけど、このチューリッヒの舞台では、自分の創作能力の枯渇と時代の変化を知り、トレント公会議の舞台裏までつぶさに眺めてしまったパレストリーナ先生は、最後の最後でピストルを取り出し、こめかみにあて、自殺を試みるのです。でも、結局、自殺できないで暗転、幕が下ります。無論、すべてパントマイムで、テキストには一切手を付けていませんし、コンヴィチュニー御大みたいに音楽に妙なことをさせてるわけでもない。
なんのことはない、この舞台、昨晩眺めた「オランダ人」どころではない、とんでもなく本質的な読み替えというか、作品そのものに違う意味を与えちゃう演出になってるですなぁ。
正直、今時、「トレント公会議でのポリフォニー禁止の動きをパレストリーナの新作によって押しとどめた」なんて神話を信じている音楽学者はいないし、まあ世間の音楽ファンの方もそんな話を常識だと思ってはいないでしょう。つまり、プフィッツナーの行ったパレストリーナ神話の舞台化は、もう神話として死んでる。で、演出家のヘルツォグは、プフィッツナーが作った神話の骨格を使って、神話をまた別の神話にしちゃったわけですね。いろんな風に解釈できる、新しい神話を作っちゃった。
小生、昨晩のコンヴィチュニーの「爆弾娘ゼンタ」への書き換えは、世間の人が一生懸命褒めたり怒ったり議論したりするほど意味のある試みとは思えない、かなりバカバカしい小手先のセンセーショナリズムだと思いました。でも今日のヘルツォグの神話の再神話化は、こりゃありだと感心しましたね。このある意味しょーもない作品を、21世紀の今にえらく面倒な手間と金をかけて再現するに値する舞台にする作業を、凄く本気で、真面目にやってる。
ただこの本質的な読み替えが、娯楽の要素が皆無なこのしんみりむっつり作品が今でも上演される最大の理由であるトーマス・マンに拠る高評価と同じラインで議論出来るかは、ちょっと判らぬです。是非ともドイツ文学の専門家の方にご覧になって頂き、評価して貰いたいもんです。
以上、この舞台、もう今シーズンはないし、この先に出るのかも判らない。ただ、チューリッヒは映像商売をしているところなので、ことによるとブルーレイにでもなるかもしれない(なんせ「ファウスト博士」をブルーレイにしてる劇場ですから)。その際には是非ご覧あれ。4時間を付き合う価値は…うううん、ありますね。ただ、ぜーんぜん面白くはないですからね、普通の意味では。
さても、ここに来た理由は、今シーズンに4回だけ上演されるプフィッツナーの「パレストリーナ」を見物するため。なんせね、棒振ってるのは我らがメッツマッヒャーだしさ、それにドイツ語圏では案外と上演されているものの、なかなかきちんとした舞台を眺めるチャンスがない大作を一度くらいはちゃんと見物しておかないと、ということ。

んで、まあこんな作品の演出についてどうこう言っても、恐らくは日本語文化圏では1ダースくらいの人しかついて来ないだろーけど、全く気にせずに記します。わざわざこんなもの見物しに極東の島から来る奴なんて余程特殊な輩(なんせ昨日はバルトリが歌う「オリー伯爵」だもん、みんなそっちだわなぁ)、20世紀オペラのマニアか、トーマス・マン研究でもやってるドイツ文学の奴くらいだろーから、もうガンガンにネタバレで書きます。
演出はチューリッヒで「遙かな響き」なんかも出してる演劇畑の方です。ですから、この小ぶりな劇場をシャウシュピールハウスのように使ってます。あ、オケ、小さかったです。「パレストリーナ」といえば、まるで「パルシファル」みたいに弦楽器をタップリ鳴らす前奏曲ばかりが有名ですけど、ときたま日本のオケでも聴けるあのタイプの演奏を期待してると、管楽器がやたらと攻撃的に絡んでくる響きになってて、へええっと思った。メッツマヒャー御大というところもあるんだろうけどさ。
第1幕への前奏曲途中から幕が開くと、ローマの大きなアパートでパレストリーナがピアノの前に座って作曲しようとしてる。そー、「ピアノの前」ですよ!パレストリーナ先生のお部屋にはテレビもあります。1幕の最後に出てくる著名作曲家はジョスカンとかじゃなくて、シューベルトとかシューマンとかベートーヴェンとかヴァーグナーとかです。第2幕のトレント会議では、枢機卿のひとりが一生懸命携帯で電話してます。ま、よーするに、今の話になってます。
面白いのは第2幕のつくりで、トレント公会議の舞台はパレストリーナ先生のお宅なんです。って言うと、なんなんじゃ、と思うでしょうけど、実際の舞台ではそれが凄く説得力ある作りになってて(坊さん達が宿舎の安ホテルでいろいろやってるところを細かく演技で見せていて、ボロメオ司教はゲイだったり、いろいろ文句言う坊さんは業者から袖の下貰ってたり、手塚漫画の見開きページをじっくり眺めるといろんなことをやってる奴らが細かく掻き込んであるみたいな感じです)、まあこんなもんかと思える。
なんでそんな妙な仕掛けをしているかといえば、プフィッツナーの台本では第2幕には一切出てこないパレストリーナ先生がパントマイムで出ずっぱり。ボロメオ司教の画策ぶりを眺めてるばかりか、公会議そのものも横のソファーから眺めてるようにしてるんですわ。つまり、パレストリーナ先生、自分に新しいミサを書くように言ってくる話の裏を全部見通しちゃってるわけ。
んで、そのまま休憩無しに第3幕に入ると、オリジナル通りのパレストリーナ先生の部屋。いけしゃーしゃーと謝りに来たボロメオ司教をぶっ飛ばすとか妙なこともなく(教皇がホントに教皇のコスチュームで登場したのはある意味でビックリでしたが)ちゃんと話は進み、おやおや、このままおとなしく終わるのかい、と思ったら、これまた最後の最後に今日も大技をかけてきた。
プフィッツナーの台本では、「教皇マルチェルスのミサ」の大成功を受けパレストリーナは再び静かに創作に向かうのであった、という「パレストリーナ神話」を描いて大団円にしたわけですね。だけど、このチューリッヒの舞台では、自分の創作能力の枯渇と時代の変化を知り、トレント公会議の舞台裏までつぶさに眺めてしまったパレストリーナ先生は、最後の最後でピストルを取り出し、こめかみにあて、自殺を試みるのです。でも、結局、自殺できないで暗転、幕が下ります。無論、すべてパントマイムで、テキストには一切手を付けていませんし、コンヴィチュニー御大みたいに音楽に妙なことをさせてるわけでもない。
なんのことはない、この舞台、昨晩眺めた「オランダ人」どころではない、とんでもなく本質的な読み替えというか、作品そのものに違う意味を与えちゃう演出になってるですなぁ。
正直、今時、「トレント公会議でのポリフォニー禁止の動きをパレストリーナの新作によって押しとどめた」なんて神話を信じている音楽学者はいないし、まあ世間の音楽ファンの方もそんな話を常識だと思ってはいないでしょう。つまり、プフィッツナーの行ったパレストリーナ神話の舞台化は、もう神話として死んでる。で、演出家のヘルツォグは、プフィッツナーが作った神話の骨格を使って、神話をまた別の神話にしちゃったわけですね。いろんな風に解釈できる、新しい神話を作っちゃった。
小生、昨晩のコンヴィチュニーの「爆弾娘ゼンタ」への書き換えは、世間の人が一生懸命褒めたり怒ったり議論したりするほど意味のある試みとは思えない、かなりバカバカしい小手先のセンセーショナリズムだと思いました。でも今日のヘルツォグの神話の再神話化は、こりゃありだと感心しましたね。このある意味しょーもない作品を、21世紀の今にえらく面倒な手間と金をかけて再現するに値する舞台にする作業を、凄く本気で、真面目にやってる。
ただこの本質的な読み替えが、娯楽の要素が皆無なこのしんみりむっつり作品が今でも上演される最大の理由であるトーマス・マンに拠る高評価と同じラインで議論出来るかは、ちょっと判らぬです。是非ともドイツ文学の専門家の方にご覧になって頂き、評価して貰いたいもんです。
以上、この舞台、もう今シーズンはないし、この先に出るのかも判らない。ただ、チューリッヒは映像商売をしているところなので、ことによるとブルーレイにでもなるかもしれない(なんせ「ファウスト博士」をブルーレイにしてる劇場ですから)。その際には是非ご覧あれ。4時間を付き合う価値は…うううん、ありますね。ただ、ぜーんぜん面白くはないですからね、普通の意味では。





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