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革命家を愛した女の物語~ボンの《アクナトン》 [現代音楽]

「欧州歌劇場でアメリカ70年代傑作を観倒すツアー」の2日目、天下の景勝地ライン河をIC車窓に眺めつつ、余りの糠味噌頭と冷房の無い車内の暑さで、とてもじゃないがやらにゃならん作文原稿をやれぬままにボンに至りました。目的は、この劇場で出ているフィリップ・グラスの「歴史上の天才三部作」のひとつ《アクナトン》を見物するためです。
IMG_2973.jpg
http://www.theater-bonn.de/spielplan/gesamt/event/echnaton/vc/Veranstaltung/va/show/

この作品、《浜辺のアインシュタイン》に吃驚したシュトゥットガルトの劇場が「グラスくん、もうちょっとオペラっぽいもんは造れないかね」と頼んで出来たもので、ま、最近の些かルーティーンワーク化した作品はともかく、グラスの音楽・文化史上に意味のある初期作品群の中でも、最も取っつきやすい作品。なんせ、お話は、かのツタンカーメンのパパとしても知られるアメンホテプ4世の「史上初の一神教創設」を、時系列を追って描くだけ。《サティアグラハ》みたいに時系列が入れ替わったり、《浜辺のアインシュタイン》みたいに主人公やタイトルの意味が判らない、なんてのじゃない。オケはヴァイオリンがないだけで、普通。タイトルロールがカウンターテナーなのは70年代には珍しかったかもしれないけど、バロック・オペラ大流行の昨今は別になんてことない。

なにより、20世紀後半から現代に至る「インスタレーション」の全てをやっちゃった《浜辺のアインシュタイン》で開拓された「ダンスと役者の動き、ナレーションを含めた舞台上の総合アートとしてのオペラ」なので、ドイツの劇場のようにオケ、合唱団、俳優、ダンサーが全部揃っているところでは、非常に便利な作品なんですわ。音楽も、昨日のランゴーみたいにオケがそれなりの力が無いとハラホロヒレハレになる後期ロマン派デッカいオケもんじゃなく、リズム処理は面倒くさいけど、通奏低音みたいに同じ音型が繰り返される気楽なものだから聴衆にはまるで抵抗はない。ミニマリズムって、トータルセリーの時代に調性を生き残らせ、セリエリズムや前衛崩壊後に繋げたのだから、歴史的には極めて重要な役割を果たしているんだわなぁ。

ま、そんな一般論はともかく、シュトゥットガルト歌劇場はたまたそれより小さい規模の総合劇場で、それなりに頻繁に新演出が出ている。小生は、恥ずかしながら、所謂メイジャー劇場での上演を眺めたことが無く…ええと、ハイデルベルク
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-07-05
グラス歴史偉人三部作を世界で唯一一挙上演したオーストラリアのアデレード
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-08-13
それから本日、ってくらいかな、実演は。ENOとか、スゴくしっかりした舞台を持ってるんですけど、実演は眺めてません。

さても、本日のボンの舞台、ラウラ・スコッチ(Laura Scozzi)という、恐らくは舞踏系の方の演出だったのだけど、これがまあ、所謂「読み替え」演出の極みのようなものでありました。一言で言えば、「過激な暴力革命家アクナトンの思想に共鳴しちゃった女子高生が、親や学校の先生に反対されながらも革命運動に加わり、アクナトンの妻のひとりになって子どもまで妊み、反革命蜂起の中で殺される」というお話。

おいおいおい、どこが《アクナトン》なんねんっ!

今更現代風の読み替えには吃驚しないやくぺん先生ですが、流石にここまで過激な読み替えってか、ストーリーそのものの変更には、吃驚しましたですよ。尤も、幸か不幸か《アクナトン》という作品がどういうものかを知ってる善きボン市民はそれほどはいないのでしょうから、これはこれと眺めている限り筋は通っている。無論、こんな無茶な設定なんだからあちこち突っ込み処満載、でも「まあ、オペラなんだからそういうことを言ってもしょーがないでしょ」と納得させちゃうだけの力業ではあった。

具体的にどうなってるか、記していけばキリがないんだけど、大きな枠は「ストリートダンスばっかりやってる不良高校生に、世界史の先生がアメンホテプ4世の宗教改革を授業する」というもの。舞台の下手にメトのオーディトリアム出口の辺りに置いてあるようなミイラ棺が立ててあり、授業をやってるうちにそっからアクナトンらが3500年の時をタイムスリップして出て来る(のか?)。ダンサーの女子高生は現代の学校生活とアクナトンの世界を往き来するようなことになる。基本、台本は弄ってません。
世界史の先生は狂言回しの神官やら旅行ガイドの台詞役が置き換わったもので、全部ドイツ語です。生徒達はダンサーで、舞踏シーンは全部こいつらがやります。アクナトンについていく女子高生も舞踏家で、これではコントラルト役のネテルティティになれるんかい、と思ったら、なんとアメンホテプ4世には奥さんがいっぱいいて、そのひとりになるので大丈夫でした(なにが大丈夫なんだか…)。アメンホテプ革命たるや、キム孫含めた世界の指導者を集めたパーティ(イスラム教指導者に豚の丸焼きを食わせてたぞおおおおお!)をマシンガンでの襲撃ですから、どんなもんか判るでしょ。最後の「強者共が夢の跡…」みたいな現代に戻るシーンは、クラスの友達や街の人々、不良になった娘を殴っても止めようとしていた親たちが、崩れ落ちたブロックに潰されたのか、娘の遺骸に花を捧げて涙する、というものであります。おおおおおお…

なんのかんの言うより、ホントは動画であると良いんだが、めっからない。こちらの舞台写真をどうぞ。
http://www.dw.com/en/new-staging-of-philip-glass-akhnaten-equates-monotheism-with-violence/a-42935731

一応、舞台としてはきっちり出来上がっていて、この劇場でこれまでに眺めたいろんな舞台(前の音楽監督の時代にシュレーカーの全作品上演を狙っていたようで、《イーレローエ》とか、まずやられない作品を眺めに来たくらいなんですけど)の中でも、トップクラスに良く出来ていた。これはこれと割り切れば、眺めに来る価値はあります。

正直、いちばん受けていたのは、ストリートダンスなどの動きを中心とした高校生舞踏チーム。こいつら。
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現実的なレベルで演出家さんが狙ったのは、「今時のストリートダンス系、ヒップホップ・ダンス系をプロの舞踏チームに本気でやらせて違和感の無い設定はなんだろうか」というところから考えていって、こういう演出になったんじゃないかしら、と邪推してしまうくらいの立派な出来です。
昨年だかのバーゼルの《サティアグラハ》でも思ったんだが、こういうストリートダンス系の今時の若者がカッコ良いと思うようなダンスって、どんどんオペラハウスに入ってきていて、屡々劇場の前で若い連中が下手くそな踊りを見せつけてるけど、あいつらにタダで見せてやって「オペラってすげええええええ」と吃驚させてやりたいよねぇ、って思う。彼らが€60とか払ってこんなもんを観に来るとは、とても思えないのは残念でありますが。

てなわけで、いろいろと思うところ、考えるところもあり、想像以上に有意義であった「70年代傑作オペラ三連発」の頭一発でありましたとさ。この舞台、来シーズンは出ないみたいだけど、もういっかい頭がちゃんとしてるときに眺めてみたいなぁ。《アクナトン》、来年の今頃、昨年だかに舞踏シーン全部引っぱがした《浜辺のアインシュタイン》というトンデモを出したドルトムントで新演出が出るんだわさ。三部作、やる気なんじゃないかな、あの劇場。

さても、ベートーヴェン生家から50メートル程のトイレ無し安宿で数時間寝て、明日は早朝のLCCでミラノに移動。今回のツアーで唯一の極東からの追っかけもいらっしゃいそうなまともな舞台、チョン・ミュンフン指揮スカラ座の《フィデリオ》です。初台のリベンジ…になるのかぁ?

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中止もまたチャンスオペレーションなりや? [現代音楽]

朝から遙か赤道下の島での半島の戦争を終わらせる会談の様子を眺め、先週の木曜日から本日までの6日間にベートーヴェンとバルトークの弦楽四重奏全曲を聴くという旧約聖書と新約聖書を一機読破するみたいなアホ極まりないイベントを終え(《セリオーソ》は裏のオケ版《大フーガ》に行ってしまったので、総天然色映画版「ヨブ記」を眺めにいっちゃって「エゼキエル書」と「ダニエル書」を読み落としちゃった、ってな感じだけど…)、もう前頭葉ほぼ崩壊状態。対岸に米軍港に上陸用舟艇眺めるYokohamaからフラフラになって深夜前に湾岸縦長屋に辿り着き、ぶっ倒れる前にメールくらいチェックしておかねばと画面を開けたら(意図的に商売用メインアドレスはiPhoneでは拾えないようにしてありまする)、疲労に追い打ちをかけるような、まるでマーラー第6番終楽章の三つ目のハンマーみたいな、悲惨極まりないオソロシー連絡が遙かブラウンシュヴァイクから入っておりました。ええい、貼り付けてしまええええ、ペとっ!

Dear やくぺん先生.
You booked two tickets for Europeras on June 23rd and 24th, 2018.
Unfortunately, the performance of ‘Europeras 1 & 2’ on June 24th, 2018 is cancelled and will not take place (tickets for June 23rd remain valid).

I can offer you to rebook your ticket to another show e.g. Originale on June 24th, 18:00h, Kleines Haus.
But you can also return your ticket at the ticket counter of Großes Haus / Staatstheater Braunschweig, open Sa 10:00 – 18:30h.

Please let me know, if your prefer a refund of the ticket price or if you like to see another show.

Yours sincerely
K.Wiegand
Besucherservice

Staatstheater Braunschweig
Am Theater │38100 Braunschweig
Telefon: 0531 1234 567
Fax: 0531 1234 570
besucherservice@staatstheater-braunschweig.de

ええええええ…

一瞬、《ユーロペラ1&2》の公演がとんだのかと頭がクラクラしましたが、余りに疲労していてまさか読み間違えたのではあるまいともう一度じっくり眺めると、「23日と24日の《ユーロペラ1&2》の日曜日の方の公演は中止になりました。23日はちゃんとやります。24日は《ユーロペラ》は中止するけど、シュトックハウゼンの《コンタクテ》の音楽を用いたフルクサス・アクションなんぞをやるけど、そっちに振り替えることも出来るぞ」ということ。

うううううん、なんだかわけわからずに、ともかく劇場のページを眺めたら、23日のケージ御大はちゃんと告知があるし、どうもやるようだ。んで、念のためにチケットを眺めてみたら…なんとまぁ、やくぺん先生が慌てて購入した数週間前から今に至るまでに、券売が殆ど進んでないじゃあないの。

ううううううううううううううん、そーゆーこーとなのか…なぁ…

吃驚や呆れを通り越し、なんだか劇場というか、この現代音楽祭主催社側が可哀想になってきたぞ。ちなみに、現代音楽祭そのものはこういうもの。ものすごく宣伝してあげたくなってきました。
http://staatstheater-braunschweig.de/produktion/notes-festival-fuer-zeitgenoessische-musik-347/

6月21日から27日までブラウンシュヴァイク歌劇場で開催され、21日から24日に小劇場でシュトックハウゼン《コンタクテ》付きのオリジナルのフルクサス・アクション、22日は大劇場でシャリーノの《La porta della legge》とワイルの《7つの大罪》、23日にはシンポジウムがあり、んで23,24日が音楽祭ハイライトの《ユーロペラ1&2》。26、27日にはルチア・ロンチェッティのモノオペラ再演でオシマイ。

うううん、フルクサスねえ…。なんか、今世紀になって初めて口にしたような気がするなぁ。

正直、あの類いを座って眺めさせられるのは結構しんどいなぁ。貴重な機会という考えもあるけど、ホントのオリジナルのリバイバルみたいなものならともかく(そういえばシンガポールに行く直前にオノヨーコ女史の最初のご主人様のお姿を眺めましたが、もうあの世代は歴史として祭り上げられる世代なんですよねぇ…)、フルクサスをもとに今のヨーロッパの若いアーティストが…ってやり方、よくあるといえばよくあるんだけど、どうにも「歴史的な価値の検証」なのか「俺たちはこうやりたい」なのか、ぶっちゃけ、殆ど後者みたいなもんで、「あーそーですかぁ、頑張ってね」で終わることが多い。現代アートの99%がそうで、実はアートは昔からそうで、その1%が歴史に耐えて生き残ってきているだけのことだから(今回のツアーでも、ブラウンシュヴァイクに入る前にエッセンでマルシュナーの《ハンス・ハインリッヒ》を眺めようかと思いましたっけ。ヴァーグナーをちゃんと知るには、押さえておかなきゃならんとは理解しつつ、付き合うのはしんどいですわなぁ、この類いは)それはそれでしょーがないんだけど、

んで、一瞬悩んで、ともかくチケットはリファンドで御願いします、という返事を劇場に出した次第。ってのも、この日、ライプツィヒで《ルル》があるというので、深夜2時過ぎに戻ってくることになるけど、日帰り往復出来なくはない。申し訳ないが、やっぱりそっちだろーに。

なんであれ、こういうことはある。敢えて芸術祭と劇場のディレクターさんたちに、フェスティバルを続けるための苦渋の選択を英断と讃えることにいたしましょうぞ。

「24日の公演は、チャンスオペレーション作業の結果、全ての幕はやらないことになりました」って発表すれば良かったのにねぇ。みんな絶対、納得するぞ、それで。

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1年先のチケットを買う [現代音楽]

今、なんとまぁ、我ながら呆れたことに、1年先のチケットを購入しました。こちら。5月31日からの第1チクルスです。明日からじゃあありません。下のwebサイトにもあるように、あと367日先のこと(あ、アムステルダムは時差でまだ昨日なのかぁ)。
https://auslicht.com/en/

先程、ある方から「来年のボルドー国際弦楽四重奏コンクールが6月4日から」という確定情報が来て、あれ、それならアムステルダムのシュトックハウゼンが重なるんじゃないかい、と思ってwebサイトを眺めたら、おおおお、なんてこった、完璧に填まる素敵な日程じゃあないかぁ。これはもう、なんのかんの考える必要などない、さっさと買ってしまえ、とつるつるとサイトを先に進めて、あっと言う間に大枚€300以上もするセット券を購入してしまいましたです。心配なのは、流石にこれだけ先だとプリント@ホームではなく、郵送だということ。ちゃんと遙かシベリアの向こうであることはネザーランド・オペラも判ってるのでしょうが、なんか心配だなぁ、これだけの額だと。ドイッチェ・ポストかなんかでペラペラな封筒で送られてくるんじゃなかろーか。

ええ、このサイクル、ご覧になってお判りのように、「全曲やると7日間かかるシュトックハウゼンの《光》サイクルを、登場人物ごとに編集して3日間の抜粋版で一挙に上演する」というとんでもない代物でありまする。まあ、《木曜日》はこのところあちこちの歌劇場で上演されるようになってはいるものの、流石に他はなかなか舞台にはかけられないわけで、中でも音楽的というよりも内容的になかなか難しいだろう《月曜日》と《金曜日》の音楽がライブで聴けるのは有り難いことであります。

無論、これだけ大規模な上演でも、あの《水曜日》の間奏曲たる「ヘリコプター四重奏」とか、《土曜日》の1年かけて演奏しろというルシファーのお通夜の音楽とか、同時にふたつの会場で演奏しろという《日曜日》の一部とか、いかな神様シュトックハウゼンとはいえそれはご無体な、ってなとこはありません。あ、なーんだ、と思ったでしょ、そこの貴方っ!(追記:この記述、どうやら間違いのようです。下の追記参照。)


それにしても、なんだか忘れちゃいそうな日程だなぁ。それより、俺はちゃんと生きてるのか、という心配の方が必要かしら。いやはや…

[6月11日追記]

本日、東京湾岸に《光》抜粋サイクルのチケット、無事に到着しました。んで、あらためて3日間の内容を眺めたら、なんと、どうやら3日目に《ヘリコプター四重奏》をやるようなことが書いてあるではありませんかっ!ホントにヘリコプター飛ばすのかぁああああ!
Airborne
Instrumentalists arrive to audition for a heavenly orchestra in ORCHESTER-FINALISTEN, and four string players literally become airborne, taking off in a helicopter. Via radio links, the HELIKOPTER STREICHQUARTETT is broadcast into the Gashouder theatre. After returning to Earth, the musicians and pilots take questions from the audience. Seven groups of singers then descend like angels from heaven and move through the audience, bringing a mood of serenity in the ENGELPROZESSIONEN, one of the two scenes from SONNTAG, the opera concluding the LICHT cycle.

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作曲家がマイク使用を求めた歌曲 [現代音楽]

「現代音楽」か「音楽業界」か、カテゴリーが微妙だなぁ。まあ、こっちにしておきましょうか。

昨日、東京都交響楽団の定期演奏会を聴くべく、溜池に行って参りました。今、某団体の予算のためにプログラム冊子を年に1回でやっつけてしまう、というかなり無茶な作文仕事で実質上5本くらいの原稿をまとめてやってる真っ最中で、当電子壁新聞どころえではなく、言うまでも無くこの演奏会もとても行けるとは思っていなかったんですけど、都響さんから送られてきた当日プログラムでいじましく作品の解説を眺めていたら、「ソプラノは”オペラティック”に歌って欲しくない。そのため、amprifiedすることを明確に記した」という作曲者コリリアーノのお言葉が記されている。

へええ、こりゃ、ちょっと聴いておかないとなぁ、つまり、ナクソスに入ってる先週NJPでいろいろやってくれたファレッタおばさま指揮する録音では
http://ml.naxos.jp/album/8.559331
絶対にバランスの問題などは判らない(ってか、録音は別物、と作曲者も割り切ってる)ということじゃんかぁ。これは無理をしてもいかねば、と思ってノコノコ溜池まで出かけた次第。麻婆豆腐屋さんの前のスチールテーブルと椅子の上で、延々とテープ起こしすることになったわけでありました。

昨日の演奏会、なんといっても話題は「ボブ・デュランの詩によるオーケストラ歌曲集」に尽きたのでありましょう。「Mr.Tambourin Man」とか「風に吹かれて」とか「戦争の親玉」とか、余りにも有名なデュランの曲をコリリアーノがオーケストレーションした…のではありませんっ!ホントか嘘か信じるかは貴方次第ですけど、作曲者本人は、デュランは知っていたが歌は聴いたことがなかった。シルビア・まクネアーがアメリカ現代詩人の言葉で歌曲書いてくれと頼んできたとき、なんのかんのあって、デュランの詩集を手にして読んでみて、これで行こうということになった、そうな(当日プログラムにある御本人のお言葉に拠る)。1938年生まれの長老コリリアーノが60年代から70年代にニューヨークを生きていて、「ヤング・ピープルズ・コンサート」の助手などをやってた奴が、ボブ・デュランの「風に吹かれて」を一度も聴いたことなく過ごすことが出来るとは、ちょっと信じられないんだけど、ま、御本人がそう言ってるんだからそういうことにしておきましょう。

デュランがノーベル文学賞を授賞する前のことで、確かグラミー賞のあのクラシック部門なんかも獲得してちょっとは話題になった作品だから、21世紀に書かれたオーケストラ歌曲集としてはそれなりに有名なわけで、評価もされている音楽でありますな。

曲そのものは、実は存在はなんとなく知っていたけどノーベル賞騒動のときもなんだかわざわざ聴く気にもならず、今回の演奏会も急に行くと決めたのでナクソスの録音も存在は知りながらも聴かずに出向いた。開演前、練習を終えた都響のチェロの某氏がそんなところでなにやってんの、ってやって来て、これから本番の曲についてちょろっと感想などを話したりしたわけだが、ま、「まあねぇ、全然違う曲だからビックリしますよ。僕は、やっぱりちょっと違うかなぁ…」って。今や都響の中堅とはいえ、若い頃はカザルスホール時代にアレクサンダー・シュナイダーなんぞで弾いてる方でも、やっぱりそういう感じなのかぁ、と開演を待った次第でありまする。

ホントの意味でデュランを歌いながら新宿の地下道を占拠してた、なんて世代はひとつ上くらいの老人初心者のやくぺん先生としますれば、そーですねぇ、実際に聴いた印象は、「ああ、これは別ものでんな」っておが正直なところ。前の日に遙々彩の国は川越まで出向いて拝聴した現代アメリカ詩人の言葉達だったわけで、それと比べるなと言われても無理じゃわい。

川越のクァルテットと翻訳者の先生の朗読で、「なるほど、現在の最先端のアメリカの韻文なり散文なりって、言葉の多元性とか、現実と非現実のズレみたいなもんを真っ正面から扱っていて、それが文学が文学として存在する所以となってるわけで、これは歌曲みたいな形で纏めるのは難しいだろうなぁ、こういう朗読という形の方が相応しいのかもねぇ」って感じてたわけでありまして、そこにもってきてデュランの詩であります。なるほど、そもそもが有節歌曲のために書かれた「歌詞」なわけだから、所謂クラシック音楽タイプの「歌曲」のテキストにこれほどもってこいなものはない。なんせ、例えばコリリアーノの「風に吹かれて」は、恐らくは一種のパッサカリアみたいな作りになってるみたいだったけど、正にそんな作りに持ってこいの言葉。繰り返しはオスティナートになるわけだし。そういう作りって、今の最前衛の詩人さんにはとてもじゃないけどできっこないわけで、ある意味、日本で言えば「マチネポエティク」を歌曲の素材にするみたいな自然さがある。

そりゃ、多くの人々の頭の中にデュランの「歌」が、ハーモニカやらあの声やらと一緒に入っているわけだが、それはそれ、これはこれ。ここまで違えば、思い出すこともない。最後の「Forever Young」をアカペラにしちゃうなんて、なかなかコリリアーノらしいあざとさというか、なんだかずるいなぁ、って、ちょっとリヒャルト・シュトラウスっぽい老獪さを感じさせる巨匠の円熟の技でありました。聴衆、大いに沸いてました。最後に歌手さんが一般参賀されちゃったりして。

…などという中身についての話は、実はまあ、演奏に接した皆様が勝手にいろいろ感じれば良いことでありまして、問題はそこではないっ。「作曲家がマイク使用を指定したクラシック声楽作品が、実際のライブの舞台でどんなもんだったか」であります。

結論から言えば、コリリアーノ御大の意図は、かなり上手くいっていたように感じられました。

終演後で客席から「どこにマイク付けてたんだろう?」という声も挙がっていたように、一見したところステージ上の歌手さんは「マイク使ってるぞ」という姿ではありません。昨今では野外オペラなんぞでは堂々と用いられるヘッドフォンマイクっていんですか、ああいう類いのものもくっつけていない。

昨今はヨーロッパの「ムジークテアター」系のオペラ演出では、後ろ向いて歌ったり、転がりながら歌ったり、どう考えてもあれじゃ客席にきこえる筈がないのに何故かちゃんと声がきこえている例は普通にあります。要は、演技の邪魔にならないように巧みにマイクを仕込み、会場全体の音響の中でおかしなことにならないような自然なセッティングでアンプリファイされた声を伝えている。拡声器使用を極端に嫌がる聴衆もいるからか、おおっぴらに「やってますよ」とは言わないけど、誰がどう考えておあれは使ってないと無理、という状況は普通に行われている。

昨日の演奏でも、この歌曲集を完全に持ち歌としている歌手さんらしく、舞台の上手から下手まで動きまわり、あるときはPブロックの方を向いて歌いもする、殆どミュージカルタレントさんみたいなパーフォーマンスでありました。こういうことを可能にするのも、巧みにコンタクトマイクを用いているからなんでしょうねぇ。

それを考えれば、このコリリアーノの指定は極めて現実的で、少なくとも今回のサントリーホールに関しては成功していたと言えましょう。オケがホントのffffなんぞで鳴ると、自然に声がきこえなくなる(そう、スピーカーを使っても録音みたいに完璧に声がきこえているわけではないのです)絶妙なバランス、舞台の上手と下手にでっかいスピーカーがあってそこから聞こえてくるというのではない自然な声の定位感など、極めて納得がいくものでした。この会場、昨年の改装で、その辺りのシステムを弄ったんでしょうかねぇ。東京のフラッグシップホールに恥じない機能だなぁ、と感心させられましたです。

てなわけで、先週の山下洋輔さんのピアノに始まり、なんだか「マイク使用について考える」週間となってる今日この頃、とても勉強になる実例でありましたとさ。このような機会を与えてくれた都響さんには、ホントに感謝するしかありません。やろうと言った下野さんも、偉いっ!

もしもマーラーが今に生きていたら、《大地の歌》のテノールにはマイク使用を要求するんじゃないかなぁ。少さもなきゃ、《大地の歌》には「マイク使用ヴァージョン」と「生声ヴァージョン」のオーケストレーションが異なる2種類の総譜を作ったりして。

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歴史的存在としてのバーンスタイン [現代音楽]

まあ、一応、「現代音楽」カテゴリーなんでしょうねぇ。

神奈川フィルのみなとみらい定期、バーンスタイン特集を聴いて参りました。数日前には目の前をミサゴ大編隊が横切ったアメリカ軍都ヨコハマ、ロビーから今日もノースピアが覗けましたです。アメリカ代表バーンスタインを聴くに、これほど相応しい場所もない…かな。

2018年バーンスタイン生誕100年イヤー、盛り上がってるんだかいないんだか、結果として日本でもいろんなオケが《シンフォニック・ダンス》やら《キャンディード》序曲やら、はたまた意外にもヴァイオリン独奏が必要な《セレナード》やら、そこそこ上演しているようでありますな。とはいえやっぱりオケが中心で、室内楽はあのピアノ三重奏曲なんかはやられるんだかやられないんだか、クラリネットが入った室内楽はそこそこやられるみたいだけど。

そんな中で、定期全部をバーンスタインに捧げたこの土曜午後の定期、若き人気者川瀬マエストロの棒で、政治的序曲《スラヴァ》、《シンフォニック・ダンス》を前半にやって、後半は交響曲第1番《エレミア》というなかなか重厚なもの。最後の演目は一度くらいはライブで聴いておかないと、とノコノコ出かけた次第。

聴衆は、まあ、堅い定期会員さんがちゃんと来てますよ、というくらいの入り。ひょーろんかの先生の顔もそこそこ見ました。面白かったのは、最初に弾いた《スラヴァ》が、ちゃんと途中にテープで政治家の演説が入る版を使ったこと。これを聴けただけで、出かけたかいはあったかな、と。「ちょっと尺が短い演奏会ですので」と若きマエストロが客席に喋って始まったアンコールは、《キャンディード》序曲かなんかかなと思ったら、なんとなんと、マエストロがオケと客席を指導して「マンボ!」叫び練習を何度かやって、みんなで《シンフォニック・ダンス》の「マンボっ!」を一緒に叫ぶ、ってサービス満点な娯楽の時間でありました。

そもそもの出かけた目的だった《エレミア》は、なんせカナフィルさんの良く言えば極めて明快明朗元気いっぱいの明るすぎる響きの金管がガンガン鳴り(どの曲もそうだったんだけど)、ヘブライ語で歌われる「エレミア哀歌」、そこに至るまるでマーラーっぽいオーケストラによる明快なストーリーテリングに期待されるような重さや粘りとはちょっと異質な響きで…なる程ねぇ。

考えてみれば、若きマエストロは当然生前のバーンスタインなんて知ってる筈もなく、マーラーなんぞを眺めるのとまるで同じ感覚でスコアを眺めるのだろう。思い入れを持てといっても無理で、曲として素晴らしいと思うから取り上げているだけなんでしょうし。そういう目に果たして耐えられる曲なのか…うううん、どうなんだろうなぁ。まあ、ギリギリかなぁ、という感じでしたね。無論、やたらと明快なオーケストレーションが素晴らしい、なんて褒めるのは簡単だろうけど。それにしても、ヘブライ語、まるで聴き取れなかったなぁ。

神奈川フィル、どういう理由か、5月にはみなとみらい20年記念で、今度はバーンスタインへの思い入れ満載なマエストロみっちーでこんな演奏会もやる。おっと、昨年の《ミサ曲》でお馴染みのポスターでんな。
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こうなったら、第3番《カディッシュ》もやってくれないかと気楽に思ってしまうが、流石にヘブライ語の合唱はたいへんなのかしら。

遙か英都でも、本日と明日だかに《ミサ曲》が上演されてます。なぜかワシントンDC、ニューヨーク、ボストンではこの大作は演奏されないというのがなんとも微妙なバーンスタイン記念年。まだまだ続きます。あたしゃ次は、シンガポールでじゃ。

個人的には、バーンスタインに師事したなどを理由に盛んに演奏している方よりも、この作曲家兼指揮者さんのことを個人的にもの凄く良く知っていたり、全盛期に日常的に一緒に仕事をしたりした人なのに、何故か生誕100年記念年に殆どなにも発言していない方の考えや意見の方が興味があるんだけどねぇ…

バーンスタインはなんで生き残っているのか、真面目に考えようと思って始めたけど、まーいーや、で腰砕けの無内容な駄文になってしまったぁ。スイマセン。

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究極の「学生プロデュース」公演 [現代音楽]

聖金曜日にオルガンのコンサート、と聞けば、誰だってブクステフーデとかバッハとかのありがたぁい音楽が並ぶと思うでありましょうが、おっとどっこい、先程終わった東京藝術大学奏楽堂でのコンサートは、メインは真っ正面に据えられたでっかいオルガンなんだけど、演目はこんなん。

近藤岳 サルヴェ・レジーナによるパラフレーズ
新実徳英 風神・雷神~和太鼓とオルガンのための~
野村誠 オルガンスープ(抜粋)
権代敦彦 ヨコハマテスタメンツ
伊東光介 オルガンと尺八のための「Hi, No.◯」委嘱作品
武久源造 風の諸相 -息の共演 二台のオルガンと各種笛のために- 委嘱作品

なんとまぁ、どーどーたる「ゲンダイオンガク」公演でありまする。こういうもん。
http://ga.geidai.ac.jp/2018/02/08/sogakudo2018/
多分、公演が終わったからとさっさと消されてしまうことはないでしょうから、どんなもんかは上のURLのページにしっかり書いてあります。お暇ならご覧あれ。要は、「藝大が年に1回、学生から企画を公募し、選ばれた公演は100万円の予算と当日奏楽堂を自由に使う権利が与えられる」というもの。文字通りの「学生プロデュース」公演であります。

世に所謂「学生プロデュース」公演は数多有り、特に今世紀に入ってからはあちこちの主催者やホール、フェスティバルが目玉企画のひとつとして盛んに行ってるのは、当電子壁新聞でも晴海やら飯田やら、西新井やら門真やら、なんのかんのお伝えして参りました。

それらの「学生プロデュース」では、公募だったり担当者が声をかけたりといろいろながら、プロデュースを行うのは小学生から大学生まで、アマチュアの学生さんでした。西新井の場合は、後半になると東武線で数駅の北千住に居を構える藝大のアートマ系学生がご指導だかアドヴァイスだかお手伝いだかに関わるようになってきたものの、基本は「足立区の高校生」だった。

この公演はそれらとは一線を画し、プロデュースするのは藝大の学生とはいえ、GAという「藝術を創り出す環境について研究する」大学院の学生たち。つまり、これから芸術団体や音楽祭のキューレーターやらプロデューサー、ディレクターなんぞになっていってくれないと困る連中がプロデュースを行うわけです。予算も自分で使うわけだし、出演者も自分で決めるわけだし、今回など予算があることを良いことに2作も委嘱しちゃってるし。「学生プロデュース」とはいえ、完全にプロのお仕事なわけですわ。

ぶっちゃけ、見事優秀企画に選ばれたのがうちのお嫁ちゃまの学生達だったもんで、まあ聞きたくないような、聞かんでも良いようなバタバタっぷりはなんとなく耳に入り、あちゃーと思ったり、爆笑したり、イヤこれは笑い事じゃスマンだろーに、と頭抱えたり…お嫁ちゃんも現場は引退しあくまでも「ご指導」とうか、なんか言われたらアドヴァイスするという立場、プロがなんにもしてはいけないというのはどんなもんだか知らぬけど、ま、最終的には「客から金を取ってなんらかの対価を提供せねばならない興行」ではないわけだし(太っ腹なことに、無料コンサートでありまする)…

かくて当日朝となり、学生プロデューサーらの溜まり場たるお嫁ちゃん研究室の白板はこんなで
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正門の向こうの上野の杜は、そろそろ散り始めた桜の下で酔っ払い共が乱れ狂う年度末の金曜日となったのであーる。

無料コンサートといえ、ジュリアードなんぞの場合はほぼ必ず事前に無料チケットをゲットする必要があったりするんだけど、この演奏会は正真正銘の無料、暇だったら来て座ってちょ。チラシもそれなりに撒いたらしいし、数日前から慌ててSNSで情報拡散などしているものの、千数百席の会場でどれだけの席が埋まるか判りゃしない。んなわけで、やくぺん先生もペンギンのぬいぐるみが置いてあるよりよかんべーということで、しっかり動員されたわけでありましたとさ。

かくて上野の山に麦酒の香り漂い桜花乱れ飛ぶ夕刻となり、奏楽堂前に向かえば、おやまぁ、列が出来てるじゃないの。これなら動員なんていらなかったじゃん。後ろにズラリと現役作曲家並べた関係者指定席に座ってからも、次から次へと人がやってきて、ほぼ満席じゃあないかい。へえええ…

和太鼓のスターやら、学内では有名人の尺八ロシアンボーイなんぞも次々登場(なんせ、学生やファカリティはギャラがかからない!)、ある意味、まるっきりコストなんぞ考えずに好きなことがやれる「学生プロデュース」公演、美術系からの光のインスタレーションだけではなく、藝大という学校がその創設以来の宿命として決定的に弱い演劇系の奴も企画に関わっているからか、オルガンビルダーさんを役者にして転換の間に楽器を弄ったり部品を並べたりするさりげないパーフォーマンスもあったり、音楽の中身ばかりだけではなくあらゆる意味であれやこれやてんこ盛りの2時間と少し、桜散るちる春の宵は更けてゆく。

正直、こんな演出いらんわいって余計なもんも少なくなかったし、インスタレーションという名目で流される曲間のテープ音楽の音量はいくらなんでもでかすぎじゃないかいと思わされるところも散見されたとはいえ(にーちゃんねーちゃんたち、「藝大」なんてアカデミズムの看板背負ってモダンげーじゅつを学ぼうというのなら、せめてあんたらが「インスアレーション」なーんちゅって考えつくようなことはもう全部突っ込まれている《浜辺のアインシュタイン》くらいはちゃんと観てからにしなさいっ!)、音楽の中身だけをみれば極めて充実しており、「そういえば、俺は人生で邦人現代作品ばかりのオルガン演奏会なんて聴いたことなかったなぁ、ここまで教会臭くないオルガンの演奏会ってあり得るんだなぁ」と感心させていただきましたですわ。野村誠のガジェット楽器一切無しって作品、始めて聴いたかも。武久さんはやっぱり「音楽の中に生きている」人なんだなぁ、とあらためて思わされたり。はい拍手!
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てなわけで、一応は「流石は我がニッポン国トップのアート・ユニヴァーシティの明日を担う才能がプロデュースしただけのことはある」と言える、立派な晩でありました。これ、お世辞抜き。

ここで学んだあれやこれやが、後に出会うであろうもっと酷いことや、涙が出るほど馬鹿馬鹿しいことに役立つものだったかは…学生さんたち次第なんでしょうね。このステージに出てこなかった奴も含め。

おっとぉ、なかなか教育的な纏めじゃわい。なあ、婆さんや。

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シンガポールでバーンスタイン [現代音楽]

短い、ってか、いついたんだ、って感じのシンガポール滞在を終え、明日には香港に向かいます。上海Q、考えてみたらちゃんと聴いたのは上海シンフォニーホールのオープニングのとき以来じゃないか。「お前、ホントにニホンでは遭わないなぁ」とチェロのニコラスに呆れられてしまった。あの独特の和声感ってか、音色感ってか、格好が付いてきているなぁ。巨匠っぽくなってきたぞ。

さても、そんなシンガポールでありますが、数ヶ月後にまた来ることになってしまいました。なんとなんと、6月2日にエスプラネードでバーンスタインの《ミサ曲》が上演されますっ!
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それも、シンガポール響じゃなくて、この街の若い連中がやってるオーケストラ。一応、エスプラネードも共催に入ってます。
https://www.orchestra.sg/bernstein-mass/
へええええ、ですねぇ。アジア地区では昨年の大フィルとここだけじゃないかな。ちゃんと演出も入る、演奏会形式じゃない(ってか、あの曲はどうやろうが「演奏会形式」だけどさ)本格上演であります。

この公演の興味深いところは、ここが「シンガポール」であるということ。なんせ、この作品の背景にはフラワージェネレーションの一種の文化大革命の流れがあるわけで、そのお陰で今やトランプの牙城のワシントンDCなんぞでは、この世界中で盛り上がってるバーンスタイン騒動があろうと一切無視、上演されそうもない。NYCも同様、ボストンも同じ。クリントン政権だったらどうだったんでしょうねぇ。

だけど、この作品のリアリティがちょっと別なところにあるヨーロッパなんぞでは盛んに上演されていて、来週にはパリ管もフィルハーモニーの定期で上演します。バーンスタイン年のハイライトのひとつ。
http://www.orchestredeparis.com/fr/concerts/mass-de-leonard-bernstein_3026.html

話をシンガポールに戻せば、この作品が生まれた頃のシンガポールって、まだマレー連盟から独立して10年と少し。向こうのヴェトナムでは米軍が「ヴェトナム化」に向けた政治的駆け引きで北爆再開したり、どうやって負け戦から足を抜くかニクソン&キッシンジャーが必死になっていた頃。フラワージェネレーションの反戦運動が勝利し、その文化が世界中に広まり、なんと「白い社会主義」シンガポールでは長髪ロック禁止令が出ていた、なんて頃です。そして、そういう時代に、正に長髪にしてロックやりたがってたのが、例えばディック・リーであり、御本人はそんな不良だったかは知らないが、今のエスプラネードを創り上げた名ディレクターのベンソン氏だったりの世代。なんのことない、今のシンガポールの成功を担った世代なんでありますね。

蛇足ながら、そういう世代の空気を知りたいなら、こんな映画があります。バーンスタインの《ミサ曲》が初演された頃のシンガポールの音楽不良を描いた、ディック・リーの自伝映画。お涙頂戴だけど、この時代のこの街の文化に関心がある方は観て損はありません。っても、ニホンで観る方法はあるのかなぁ。
https://www.yesasia.com/global/wonder-boy-2017-dvd-malaysia-version/1064228977-0-0-0-en/info.html

もとい。そういう人達の根っこにあるものを知らない、知る必要もない、今や日本を抜いてアジアの経済トップの理想的な国家を作っている(←無論、皮肉です)シンガポールの中で育った若いアーティスト達が、無茶な企画と百も承知で(恐らく…)上演しようとしている。

これは眺めに来ないわけにいかないでしょーにっ!パリで眺めるより、ロンドンで眺めるより(やくぺん先生到着の前々日!)、シカゴで眺めるより、はたまたヴィーンで眺めるより、余程意味がある。…って、このブーシーのリストにこの上演が載ってないけど…大丈夫なんだろーなぁ。直前に出版社から横やりが入って中止、なんてイヤだぞぉ!
http://www.boosey.com/cr/calendar/perf_results?musicid=4084

さあ、バーンスタイン愛好家は、6月2日にシンガポールに向かうべしっ!

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アブダビは「現代音楽」ばかり [現代音楽]

敢えて「たびの空」でも「弦楽四重奏」でもなく、「現代音楽」カテゴリーにしましょ。

アブダビ室内楽のアタッカQミニレジデンシィ、月曜日から始まり、本日はもう週末の木曜日(金土が週末です)。なんせ、バタバタ動き回るのに付き合い、その間になんのかんの東京からの指示で作文が積み上がり、俺はどこに居るんじゃ、という状況。電子壁新聞まで辿り着けず、申し訳ありませんです。

アタッカQの1週間のレジデンシィも本日の英国学校講堂でコンサートはオシマイ、あとは当地の若い音楽家へのマスタークラスというか、個人指導だそうでやくぺん先生も明日の夜にはまたアラビア湾越えてアフガニスタンからヒマラヤ沿って中国の砂漠を飛び越え、半島越えて極東の島に戻り、エクのモーツァルトが終わったら再び南にとって返すというアホな日程。この老人初心者の体がもつのか、他人事のように呆れて眺めているしかないのでありまするが、ま、それはそれ。

んで、当地でアタッカQが披露している演目について語るのであーる。普通、アウトリーチ中心のツアーとなると、弦楽四重奏団が弾く曲といえば、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》第1楽章、K.136第1楽章、ハイドン《皇帝》のヴァリエーション、《死と乙女》第2楽章、メンデルスゾーンのカンツォネッタ、《アメリカ》のどこか、《アンダンテ・カンタービレ》、たまにラヴェルやドビュッシーより、はたまたバルトークのピチカート楽章、そして日本の団体ならば幸松肇《日本民謡集》より…なーんてことになるのが常でありまする。上手くいけば、これに《ラズモ》全曲が加わるとか、作品18の4をやらせてもらえるとか。ヘタすりゃ《四季》より「春」とか、「パッヘルベルのカノン」とか…

ところがどっこい、ここアブダビでアタッカが弾いているプログラムを列挙すると
5日:キャロライン・ショー《エンテーアクト》、ハイドン《鳥》、ベートーヴェン作品132
7日:キャロライン・ショー《ヴァレンシア》、バルトスツスキSQ第1番、ビーチェク《Flowering Fire》、クスメンコSQ第2番、マシュー・クェールSQ第1番より第2楽章、ベートーヴェン作品132
8日:キャロライン・ショー、アダムス、ネーサン・シュラムなどの小品、ベートーヴェン作品18の6

要は、ハイドン、ベートーヴェンの作品18の6と作品132以外は、みーんな今世紀に書かれた曲ばかりなんですわ。それどころか、6日に市内の高層マンション最上階で開かれた音楽協会の関係者向けクローズドのサロン・コンサートの演目も、ショー、シュラム、アダムス、それにベートーヴェン作品18の6第3楽章、そしてジョン・ウィリアムス(アタッカ編曲)《スターウォーズ組曲》、でありまする。セレブが集まる空間に、帝国軍マーチが響くのであったぁ!
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無論、これには理由があって、7日の演奏会の前半に弾かれたのは、今や最もインな作曲家のひとりでアタッカQのお友達のショー
http://carolineshaw.com/
それから、NYUアブダビの先生をしているクェール
http://www.matthewquayle.com/
というプロの作曲家に挟まれてるのは、ニューヨーク大学アブダビの学生の作品なんですわ。学生達の作品をアタッカQが練習。今、NY本校に行っている2人の学生は、朝の5時にたたき起こしてSkypeで結んで
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アタッカQがあれこれ言って、クェール先生からもいろいろさらに言われ、んで、大学内講堂で演奏会にかける、という教育的イベント。本番で拍手喝采を受けるノヴォシビルスク出身のクスメンコくん。
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このアブダビ・レジデンシィでは目玉のイベントのひとつでありますが、アタッカQとすればアメリカ国内ではよくやってることだそーな。

ま、それはそれとして、それでもやっぱり「現代音楽」ばっかりだなぁ、それもクロノスQやアルディッティQがやるようなものとは違う、なんというか、アカデミズム系というのでもなく、でも「前衛音楽の伝統」や「セリエリズムの流れ」や「ポスト・ミニマリスト」でもない、ある意味、音楽史が終わったところから好きにやってるみたいな作品ばかりであります。なお、クェールの弦楽四重奏は近くナクソスからアヴァロンQの演奏で出て来るそうな。へええ。

アタッカQという団体がそんなところに非常に強い、ことによると地味に新しい弦楽四重奏のレパートリーを切り開いている団体であるという事実もあるのだろーけど、もうひとつ、とても大きな理由がある。

それは…「ここがアブダビだ」という事実。

アブダビ室内楽のディレクターさんに拠れば、彼女の知る限り、この数年でアブダビにやってきた弦楽四重奏団は、彼女が招聘した最初の若い団体、ヴェローナQ(まだヴァスムートQ時代)、アイズリQ、それに今回のアタッカQ。その他には、ゲーテ・インスティテュートがマンダリンQを招聘し演奏会をしたことがあるくらいだそうな。なんせ、今回のアタッカ、ベートーヴェン作品132のアラブ首長国連邦初演ではないか、との話だし。

つまり、コミュニティ・オーケストラもなくなってしまい、レギュラーで西洋型オーケストラを聴く環境にないこの街、ましてや弦楽四重奏となれば、演奏されるのがベートーヴェンだろうがアダムスであろうが知られてないことに違いなどない。何を弾こうが、「あれを聴きたかった」とか「どうしてあんなのをやったのだ」とか、誰も文句は言わない。それなら、自分らがいちばん自信がある演目をやって、説得力のある音楽をするのが最も良いに決まってます。猛烈に健全な音楽の受容ではありませぬかっ!

かくて、アラビア湾の夕日を眺めるペントハウスで、アタッカQヴィオラ奏者が作曲した妻に捧げる音楽が流れ、セレブの皆様が「ステキな曲ねぇ」と涙す。

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個体発生は系統発生を繰り返し続ける…のか [現代音楽]

昨晩は、上野の杜は芸大構内の教室をデカくしたようなホール、隣では聴衆ぎゅう詰めで神様クイケン御大が学生オケ振ってる大盛況状態を横目に、作曲科の学生演奏会を覗いて参りましたです。
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http://composition.geidai.ac.jp/post/167163720457/ream2018
アンサンブル・リームとは言うものの、かの「世紀末ドイツゲンダイオンガクのベートーヴェン」と一頃盛んに持ち上げられたWolfgang Rihmのことではないようでありました。ヴァイオリンに我らがタレイアQのお嬢さんが入ってて、メンバーも固定されるわけではなく、ぶっちゃけ、年に1度のこの学内演奏会のために弾ける(こんなもんに付き合ってくれる、という意味も含め)連中を集めた団体のようであります。

目的はもうハッキリしていて、名前ばかり有名で殆どライブで接することは不可能なストロッパのアンプリファイされた弦楽四重奏の為の《スパイラリ》を聴くこと。なんせ、日本というべきか、トウキョウというべきか、このなんでもありの都市でいちばん聴けないのが、このIRCAM系電子音響付きライブものですから(ある程度定期的に聴けるのは、オペラシティのB→Cくらいじゃないかしらね…それでも「いつも」というわけではないし)。結果から言えば、この演奏会、「トウキョウでいちばん聴けない」ジャンルであるわけがよーくわかる一晩となった次第でありました。

藝大学生さんのフルートとライブエレクトロニクスの作品、藝大出身で実質上この演奏会シリーズを仕掛けている若い作曲科さんのピアノとライブエレクトロニクス作品と、弦楽トリオ&フルート&クラリネット&ピアノの六重奏曲(電子楽器無しで指揮者付き)、それにストロッパ、という演奏会でありました。作品の面白さ、完成度というところとは別に、このような電子音響をいじくりまわす演奏会では、客席後ろに陣取った音響機器の操作を恙なく行うというバックステージ的な部分、とはいえこの類いの演奏会ではそれ自身が楽器ライブ演奏と同じ(若しくはそれ以上の)比重を持つ部分の取り回しがなんともバタバタしていて、大いに問題を感じざるを得なかったのであります。

なんせこの教室、天下の上野の杜の藝大、日本で一番偉い筈の芸術音楽創造の拠点なのに、1950年代後半以降のドナウ・エッシンゲン音楽祭というか、ケルンの電子音楽スタジオというか、パリのポンピドーセンター隣の池の下のIRCAMというか、そういう「ライブ演奏を電子的に補正しスピーカーを通して伝える」という類いの音楽をきちんと再現出来る環境になってません。なんせ、この調子。
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なんだか一昔二昔三昔前の草月ホールからなーんにも変わってないじゃないかぁ、と思えるような状況であります。

開演も7時予定が機材セッティングだか音響テストだかが押して、やっと客席に40人くらいの人の良い(忍耐力のある?)無料聴衆が入ったのは7時15分近く。最初のフルート曲が始まるときにもなんだかバタバタしたものの、なんとか終わった。けど、次のピアノとライブエレクトロニクスの作品が始まる前から、ライブ音を後ろの電子操作パネルに伝える回線がおかしいのか、最初の音出しからなにやら妙で、ともかく始めたのだけど、直ぐに中断。なんのかんのあり、ここで一旦休憩となってしまったです。

15分くらいの休憩を挟み再開された曲は、電子補正がさっきのと全然違うじゃん、ってもん。つまり最初はまるっきり上手くいってなかった、ということでんな。

その後、電子音響補正なしの六重奏(弦楽器は微分音担当、管楽器は音程とは異質な空気の流れの響き担当、んでピアノは音程の核みたいな部分担当、と非常に明快なアンサンブルでありました)を挟み、後半のストロッパは、所謂クロノス・スタイルの直接マイクをくっつけてアンプリファイした弦楽器で、その音をグルグル回したり歪めたり、という典型的な80年代IRCAMスタイルっぽい音楽。ある種の古典になり得る作品で、これは繰り返し演奏されるべきだなぁ、と思わされたのは大きな収穫でありました。お疲れ様です。
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さても、この演奏会のご教訓は、まさにこの「繰り返し演奏されるべき」というところであります。

所謂「現代音楽」が所謂「クラシック音楽」の枠組の中で提供される最大の理由は、「古典を選択し、その演奏を繰り返し、その作品を後世の作曲家の卵が吟味し批判し、新たな創作の礎にしていく」というフォーマットの中に存在しているからであります。これはもう、「そうじゃない」とは言えないくらい明快なことでしょ。そうじゃなかったら、こんな手間暇かかる音楽学校なんて場所で格別の庇護を受けつつやる必要ないんですから。今回、ストロッパが演奏されるというのも、この作品が「古典」たり得ていると人々が判断しているからでありましょう。実際、演奏者の皆さんは、それに値する音楽であると思わせてくれた。

ところが、前半のドタバタっぷりが示すのは、このような演奏会のもうひとりの主役たる電子機器の基本的な扱いが全く出来ていない、という事実。つまり、酷い言い方をすれば、弦楽四重奏を弾くと出てきた弦楽四重奏団のチェロが鳴りません、みたいなことが起きていたのでありまする。

これ、マズいでしょ。このような形態の演奏会がまだ珍しく、古典にもなっていないどころか、やり方を模索していた1960年代くらいならともかく、もうこういう演奏会の在り方が還暦を迎えようというくらいなのに、なんでこーなんねん、って。

もっとマズいのは、東京藝術大学という我らが納税国のフラッグシップたるアーツ・ユニヴァーシティには、ちゃんと北千住の分校にこのような電子装置を用いた再現や創作を専門にやってる部が存在し、きちんとした設備も整っている、という事実であります。そういうもんが学内にないんならともかく、そういうことをプロとしてやっていこうという学生が溜まってるところがあるのに、なんでそこでやらない、若しくはそこの連中に助けて貰わない、技術を借りないんじゃ?

学内的には「上野の作曲科」と「北千住の音楽創造研究科」とはまるで交流がないとか、先生が違うのでまるで知らないとか、いろいろ難しいことがあるのかも知れませんけど、そんなことたかが学内の事情だろーがね。わしら納税者とすれば、いくら独立法人になったとはいえ俺たちの税金でやってる日本で最高の藝術創造を目指す学校、こんな恥ずかしいことしてちゃ困るのじゃよ!

全ての藝術的な成長は個体発生が系統発生を繰り返すのだ、だからこういう試行錯誤も必要なのだ、という意見は判ります。とはいえ、それは学部レベルくらいでバタバタしてくださるべきことでありましょうぞ。隣に座っていた作曲家の方に拠れば、今回のような事態は始めてではなく、「毎度お馴染み」に近いそうな。そうだとしたら、ぶっちゃけ、恥ずかしいぞ、我らが藝大!

以上、納税週間の納税者の真摯な怒りでありました。

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弦楽四重奏版マーラー交響曲…かな [現代音楽]

またまた旧聞ネタ。今を去ること2週間も前の話。

去る1月31日、アムステルダムのクァルテット・ビエンナーレで、極めて興味深い演奏会がありました。こちら。オランダ語のページしか出てこないなぁ、まあ、なんか、判るでしょ。
http://www.sqba.nl/events/extending-string-quartet-jorg-widmann
要は、シグヌムQがヴィドマンの弦楽四重奏曲全5曲を一気に弾く、って演奏会でありまする。

ご存知の通り、ヴィドマンって作曲家は、今世紀に入って、特に10年代になってから、ドイツ語圏を中心にちょっと異常なまでに高く評価されている作曲家であります。「高く評価される」ってのはもう非常にはっきりした根拠があって、あちこちのメイジャーなオーケストラやら音楽祭、主催者から委嘱が引きも切らず状態である、ってこと。それどころか、メイジャーなオペラ劇場から新作オペラを委嘱されたりしてる。当電子壁新聞でも、何度か話題にしております。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-01-28
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-01-23
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2013-06-23

前々回のパリのビエンナーレでも、シグヌムQがヴィドマンの1番と2番をやってるわけで、それから4年、とうとうアムステルダムでは5曲全部をやっちゃった。いかにこの作曲家さんが特別視されているか、よーくわかりますね。

昼間の演奏会、他の日は2時過ぎから始まるのにこの日だけは早めに始まって、なにやら普通じゃない感じが漂っている。ムジークヘボウのメインホールには、聴衆が、そーだなぁ、300人くらいかしら。

まずはシグヌムQと一緒にヴィドマン御本人が登場。無論、クラリネットは持ってませんっ。今回のやくぺん先生欧州弦楽四重奏漬けネタ仕込みツアーの間、ヴィドマン御大はハーゲンQと一緒に自作のクラリネット五重奏でツアーをしていて、やくぺん先生がパリを早朝に発った日にパリ公演、やくぺん先生がハイデルベルクからアムステルダムに向かっている真っ最中にアムステルダム公演があり、ものの見事に敬遠したみたいな形になってしまった。別に敬遠したんじゃないけど、そう見えても仕方ない動き方であることは否定し得まい。うん。

んで、その売れっ子ヴィドマン先生、弦楽四重奏を横に置いて、延々と英語で(!)喋ります。もう、曲を全部説明してくれちゃったわけでんがな。
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正直、もう2週間も前の話で、以下に記す感想はヴィドマン先生がお話になったことなのか、実際に聴いていろいろ感じたことなのか、判然としなくなってます。スイマセン。ま、だからって困るようなことじゃないから別にどーでも良いんだか、ヴィドマンが言ったことなら引用なりもありだろうけどそうじゃないから、そんなことしないよーに、ってことですので、そこんとこ宜しくです。

それぞれ15分から20分くらいの5つの弦楽四重奏曲、無論、全て独立して書かれたものながら、明らかにサイクルになってます。

まずは、以前にも記したかな、やくぺん先生が全く偶然にもディオティマ、クス、アルモニコ、ヨハンネスら若き弦楽四重奏団6団体によって次々と初演される現場に居合わせてしまった(そしてヴィドマンが偉くなってからも、そんなことがあったなんでずーっと忘れてた)第1番。若きヴィドマンが、ラッヘンマンなんかとはまた別な、それに当時大流行、絶頂期だったリームともまた別な、ある意味でもっと遙かに判りやすい「前衛技法」っぽさをあれこれやってみた、という作品。「これからやらかす曲達の元ネタがいろいろ出てますよ」という提示部、導入のプレリュードみたいなもの。

続く第2番は、比較的技法の数を絞り込んだ緩徐楽章。続いて、ヴィドマンの全作品の中でももしかしたら世界中で最も知られ、最も頻繁に演奏される人気曲の第3番。これはもう、「狩のスケルツォ」まんまでんな。シグヌムQさん、流石にやりまくっているのでしょう、シアターピースとしてもの凄く達者というか、手に入ったパーフォーマンスでありました。

その次の第4番は、ヴィドマン御大曰く「常にどこかでピチカートが鳴っている」行進曲風の緩徐楽章。そして、最後はラテン語とドイツ語で聖書の一部が歌詞とされ、全部がカノンで書かれている終曲。

つまり、全体を続けて一気に演奏すると、1時間半弱くらいの、「序奏風の冒頭楽章、緩徐楽章Ⅰ、スケルツォ、緩徐楽章Ⅱ、ソプラノが入る終曲」となる。

おいおいおい、まるっきりマーラーじゃないのぉ!マーラーの5番とか7番とかを思い出すな、と言う方が無理でしょ(思わず、帰国後に1500円也のE券握ってNHKホールに走り、まらなな聴いちゃった程じゃ)。

実際、多作を誇るヴィドマン先生、10年も前に第5番を書いてから、弦楽四重奏は新作を発表していません(多分……ちゃんと調べてない)。これはこれですっかり完結したフォーマット、ということなんでしょうねぇ。

技法、ってか、書法的には、3番冒頭で使い始めた「ぴゅっと弓で空を切る」音、どうもヴィドマン先生大いに気に入っちゃったみたいで、その後、盛んに使うようになってるのが面白いです。この方が開拓した技法というわけではないでしょうが(ラッヘンマンなんかにもあったような)、すっかりトレードマークになった。

そんなこんなでヴィドマンの弦楽四重奏サイクル、今時流向の「〇〇全曲演奏会」のパロディみたいにも思えるところが、いかにもこの作曲家らしいです。日本でやられることは…どーなんだろうか。この夏に請うご期待(←何か情報があって言ってるわけではないので、深読みしないよーにっ!)

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