So-net無料ブログ作成
現代音楽 ブログトップ
前の10件 | -

アダムス&セラーズの「リアリティ」 [現代音楽]

昨晩、サンフランシスコの戦勝記念オペラハウスで、ジョン・アダムス&ピーター・セラーズの新作《西部の娘たち》世界初演の6回目の公演を見物して参りましたです。
018.jpg
これから成田に向け、サンフランシスコ空港から戻るところ。今回の超短期渡米のメインイベントでありまするな。

ええ、この作品がどういうものか、プレゼンターのサンフランシスコ・オペラが詳細な関連記事を含めた当日配布されるA4版のプログラムを宣伝広告ページまでまるまるそのまんまでアップしたPDFファイルを置いてくださっているので、いろいろ説明するのもめんどーだから、そっちをご覧あれ。
http://devsf.encoreartssf.com/sites/default/files/programs/girls-of-the-golden-west-san-francisco-opera.pdf
この団体、前回の同チームに委嘱した《ドクター・アトミック》でも、現在も生きている(と思うのだが)もの凄く充実したwebサイトを作ってくれております。資料としても有り難いことでありまする。世界中で世界初演のプログラムが簡単に手に取れるわけですからねぇ。

作品の中身などは、上述の当日配布プログラム38ページにしっかりありますので、そちらをご覧あれ…ってのも乱暴だろーから、一応、最低限の「あらすじ」を記せば…

米墨戦争の勝利でアメリカ合衆国に加わったばかりのカリフォルニアで金が発見され、49ersと呼ばれる一攫千金を夢見る男達が集まって来た頃のサンフランシスコから奥に入ったシェラネバダ山脈の街に、ボストンからシャーレイ夫人がやってくる。彼女は、この地に集まって来た一癖も二癖もある連中と知り合うことになる。人口比では異常に男性偏重のこの場所で、一攫千金にぶち当たらない金鉱探しのヤンキー、誰よりも教養ある解放奴隷、かつてこの地を支配していたメキシコ人のカジノ経営者やそこで働く女たち、チリ人などの新興労働者、中国人売春婦、等々。第1幕ではそんなシェラネヴァダ山脈の金山街の様々な人々の姿を描く。第2幕では、7月4日の合衆国独立記念日に「マクベス」が上演され(当時、シェイクスピア演劇はヤンキー系に大人気な娯楽だったとのこと)、その裏でヤンキー連中が南米系やアジア系労働者を襲撃するという噂が流れ、チリ人やメキシコ人が逃げ出し、解放黒人奴隷が暴徒に殺されてしまうなど、騒然たる状況となる。そんな中で、カジノ経営者のパートナーの黒人系の女ジョセファが、愛人にしていた中国系売春婦との関係がもつれ自暴自棄になったヤンキーに強姦されかけ、殺してしまうという事件が勃発。ジョセファは正規な裁判もないままに、ヤンキーらによって実質リンチのように縛り首にされてしまう。シャーレイ夫人は、自分の眺めた現実を前に、東部に戻っていく。

って、全然粗筋になってないなぁ、と思うわけだが、実際、この舞台、普通の意味での「ストーリー」はありません。今から150年ほどまえのシェラネヴァダ山脈の街で起きたことの断片が、群像劇のように展開されるだけです。物語の主人公もおりません。シャーレイ夫人は彼女の目の前で起きていることを記述する役回りで、舞台の進行には関わらないといえばかかわらない。普通に考えれば主人公になって舞台を眺める聴衆に共感させ、同情を集める役回りになる筈のジョセファも、主人公ではない。中国人売春婦シンも、彼女に入れあげるもののその野心に付いていけず逃げ出してジョセファを襲う金鉱堀ジョー・キャノンも、主人公扱いではない。つまり、聴衆の目の前には、カリフォルニアの歴史のある瞬間が提示されるだけ。シャーリー夫人の「彼女がやって来てから去るまでに起きたこと」という時間を切り取る立ち位置には、ジョン・アダムスというカリフォルニアにやってきたボストニアンを連想しない方がムリだし。

考えてみれば、過去のアダムス&セラーズが制作した作品って、どれも普通の意味でのオペラ台本から考えれば、相当に特殊な作りになっていた。《中国のニクソン》に始まり、《クリングホッファーの死》、そして《ドクター・アトミック》と、「オペラティックな劇的盛りあげ」とか「緊迫した対話」とか、はたまた「対立する者たちの歌によるやり取りの結果の和解」とか、そんなものは一度として描かれたことはなかった。数年前にも、同じことを書いてるなぁ、この無責任電子壁新聞。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-11-14

どうしてそうなるかというと、《クリングホッファーの死》は例外として、他はどれも台本作成にあたってテーマとする歴史的な出来事の一次資料をあたりまくり、手紙やら手記やら可能な限り実際の言葉を引っ張り出し、それをつぎはぎしてキャラクターや台本とする、という作業をしているからなのでしょう。つまり、「このような状況ならいかにもこいつはこういう風に言うだろう」というような創作で台本を書いているのではない。

だから、台詞として歌われる中身は、言葉も話し言葉ではなくて書き言葉になり、客観的で、概念的になる。出所は違うとはいえ、《ドクター・アトミック》1幕最後のオッペンハイマーのアリアなど、恐らく過去に書かれたオペラアリアの中でも最も「言葉が難しい」もののひとつでしょう。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2007-06-30

毛沢東もニクソンも、はたまたオッペンハイマーもいない、誰ひとり歴史的な英雄などおらぬ150年前の庶民ばかりが登場人物であっても、やり方は変わらない。つまり、普通のオペラ台本から考えれば、もの凄くリアリティのない言葉が歌われることになるわけです。なお、今回の作品では、正当防衛の殺人を犯してからのジョセファはずっとスペイン語で歌う、という捻り技が使われています(多分、です。なんせリブレットはないもんで、一度聴いただけのいい加減な印象ですが)。

でも、この聴衆にとってのリアリティの無さこそが、ある種の「現実の異化」であり、「瞬時に状況を歴史化する」重要なテクニックでもある。あらゆる台詞が説明になっているような、不思議な距離感。ことによると、オペラという時代遅れの極めて非現実的な舞台だからこそあり得る、特殊な台本の在り方…なのかしら。少なくとも、初期のミニマリズムとはまるで違うところに至った、なによりも「オペラティックなノリノリ感」を自ら崩していくような変拍子が多用されるアダムスの音楽は、このような突き放し感満載の台本には極めて合っていることは確かでありましょう。

中身や音楽に関してあれこれ言い出せばキリがないので最低限の感想だけ述べれば…そーですねぇ、1幕最後の黒人解放奴隷のアリアとか、最後のシャーレイ夫人のモノローグとか、如何にもアダムスらしいここ一発のアリアはあるものの、全体に地味な「アダムス御大のご当地オペラ」であることは否定しようがない(考えてみれば、アダムスのオペラって、今回の作品も含め、どれも地味いいにフェイドアウトするみたいに終わりますねぇ)。オーケストラ版も既に出来ていて、あちこちで演奏も去れ始めている2幕の《スパイダー・ダンス》にしても、猛烈にパワフルでインパクトがある、という感じではなかった。敢えて派手なことは避けている、って感じすらしました。

ただ、2017年という年に出てきたこの作品が、メインの筋書きが「150年前の黎明期カリフォルニアで起きたヤンキー集団に拠る異文化住民の排除騒動を、正統的な西洋文化を背景とした者の視点から眺める」というものになっているのは、ある意味で、今のアメリカ合衆国という社会の在り方をまんま批判することになっている。なにしろ、アダムスに近しいアタッカQに拠れば今年の春にはもう作曲が終わっていたというこの作品、「トランプのアメリカ」を批判する意図など台本作成中にはまるで無かった筈。それが、結果として、まるで知的な民主党支持者が覚めた眼差しでトランプのアメリカのうさんくささを眺めている作品のように見えているのだから…

考えてみれば、《ドクター・アトミック》も、日本の一部で誤解されているような「ヒロシマ・ナガサキ」に対する批判ではなく、「人類が人知を越えたところに手を突っ込むことで、地球という生態系の在り方に何かが起こってしまうのではないか」という、敢えて言えば「エコロジカルな視点からのフクシマ批判」となっていた。あれも、フクシマが起きる遙か前に出て来てるわけですからねぇ。

ううん、アダムス&セラーズの切り取るテーマの「リアリティ」って、ちょっとオソロシイとすら感じてしまいますです。

なんだか全然感想にもなってないけど、ともかく、そういうモノを観た、というご報告でありました。関係者の皆様、お疲れ様です。特に、この2人。
012.jpg
ちなみに、ほぼ満員の観客席から、唯一ブーが飛んでいたのが、セラーズでありました。中途半端に具体的な舞台がお気に召さなかったのか、それとも「ヤンキー」が悪者になる台本そのものに文句を言いたかったのかしら。

この公演、ダラス・オペラとネザーランド国立オペラとの共同制作になっているので、いずれ、アムステルダムの運河の畔でも観られるでしょう。1回眺めてどんなもんかはだいたい判ったんで、敢えて地元を離れたヨーロッパの空気の中でもういっぺん、じっくり眺めてみたいものであります。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

《西部の娘》ではなく《西部の娘たち》 [現代音楽]

エクが定期関連のツアーをやっているところに、ヘンシェルQが来て博多から関西、名古屋を経て帝都に来訪。その間に高岡から始まったアイズリQのグランプリ日本ツアーが足かけ3週間ほど、なんのかんのなんのかんのとクァルテット連中にただ付き合うばかり、という新暦霜月もやっと終わろうとする感謝祭休暇最後の日曜日の朝。皆々様にはいかがお過ごしでありましょうか。当電子壁新聞もなんのかんの更新が進まず、書きかけをまとめてアップする、なんて荒っぽいことをやってますが、ま、別に誰にも責任のない私設媒体ですので、ゴメンナサイとも言いませぬ。はい。

んで、いよいよ今日からは、《アッシジの聖フランチェスコ》演奏会形式全曲演奏に始まり、シカゴでのパウントニー演出《ヴァルキューレ》、そして今シーズンのハイライトのひとつたるサンフランシスコ戦勝記念オペラハウスでのジョン・アダムス&ピーター・セラーズの新作世界初演、という娯楽なんだか好きでやってる苦難なんだか判らぬような1週間ちょっととなります。それが終わると、既に厳冬の半島に飛んでベルチャQ&ノブスQのオクテット、なんてまたクァルテット漬けの方に戻り、1月2週後半から3週間で3ダース以上の団体を聴く2年に1度の欧州弦楽四重奏漬へと突っ込むわけで…

ふうう、そろそろこういうバカな生活もなんとかせねばなぁ、と思わざるを得ぬ爺初心者なのであった。いやはや。

んで、世間ではライブ・ビューイングが予定されているメトのアデス新作《皆殺しの天使》の方が話題なのかもしれないけど、やっぱり、アメリカ合衆国からカナダへの亡命者が絶えないという(数日前に、某所でご一緒させていただいた先頃までカナダ大使をなさっていた方から聞いた話で、冗談ではないそうな)こんなとんでもないご時世に初演されることになってしまったアダムス作品でありまする。これが公式。
https://sfopera.com/1718season/201718-season/goldenwest/designers/ggw-moving-moment-1/
全米メディアお役所全部お休みの感謝祭休暇に合わせての初演だったからか、反応は些か遅いようですが、21日の初演以降、いろいろ報道も出てきています。舞台写真としてはこれがいちばん充実しているかな。
http://www.playbill.com/article/first-look-at-the-world-premiere-of-john-adams-and-peter-sellars-opera-girls-of-the-golden-west
ま、中身その他については来週、SFに到着してから自分の勉強のために記すことになるでしょう。まずは、バックトラックさんの批評がアップされてるので、ご覧あれ。ついでに、ファイナンシャルタイムズの批評もどうぞ。
https://bachtrack.com/review-john-adams-girls-of-the-golden-west-world-premiere-sf-opera-november-2017
https://www.ft.com/content/f891bd0c-d056-11e7-b781-794ce08b24dc

このオペラ、なんといってもこの先、困るのは題名でしょう。なんせ、既に誤った表記が氾濫しております。正式の題名は、《Girls of the Golden West》です。これが屡々、《Girl of the Golden West》と誤って表記されることがあり、もっと酷い場合は《The Girl of the Golden West》にされちゃっているのもある。

そー、最後の表記は、かのプッチーニの《西部の娘》の英語表記と全く同じなんですわ。アダムス&セラーズは、頭の定冠詞はなく、The Girl じゃなくて、Girlsなのですよ。だから、敢えてちゃんと訳せば、《西部の娘たち》とか、《西部の若い女たち》なわけですね。

この微妙な英語題名の違いは、おおよそ100年を隔てて世に出たアメリカ合衆国西部開拓時代ゴールドラッシュのカリフォルニアを舞台にしたふたつの中身がまるっきり違いますよ、と表明している。

誰でも判るように、プッチーニはゴールドラッシュの西部を背景とした毎度お馴染みラブロマンス、それに対し、アダムス&セラーズはゴールドラッシュ西部で生きた様々な女たちの姿を描く群像劇とは言わぬが、歴史絵巻です。なんせ、後者はアフリカン・アメリカン(黒人、とか、ニグロ、という今のアメリカ社会では使えない表記を敢えて用いるのが正しいのでしょうが)の娘の悲劇がメインとなり、そこに東海岸から来たエリートのインテリ女性や、中国人娼婦が絡んでくる、というのだから。なんせ娼婦の宿が舞台だったりするわけだしねぇ。

なんだか、この秋から始まった「スタートレック」の新シリーズが黒くて若い女性士官が主人公で、第1話で大活躍し殉職するのがミッシェル・ヨー演じる中国系女性艦長だったり、ドクターと科学仕官がゲイのカップルだったり、艦長と保安主任がPTSDだったり、なんてクリントン大統領のアメリカを前提にした話なのとも通じるような…と言っていいのかは、また先の話。

てなわけで、この先、この作品に関しては《西部の娘たち》という表記を使い、プッチーニ作品との混乱を避けるようにしますので、皆々様もヨロシクお願いしますです。

さて、これからメシアンで、明日は法事。ずーっとお経を聴いてるような2日間じゃ。

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

ジョン・アダムス&ベルリンフィル [現代音楽]

遙か太平洋を隔てたサンフランシスコ戦勝オペラハウスでは、数時間前からジョン・アダムスの新作《西部の娘》世界初演が始まったところ。
https://sfopera.com/1718season/201718-season/goldenwest/
一方、ここトーキョーでは、ほぼ同じ時間にジョン・アダムスが昨シーズンの「アーテイスト・イン・レジデンス」を勤めたベルリンフィルの記者会見が行われ
019.jpg
この類いのもののマニアさん、愛好家さんにはもう涙ちょちょ切れの発表がありました。日本語ではこれが良いかな。ほれ。
https://primeseat.net/ja/news/20171109-001582.html

これは「ハイレゾ試聴のお知らせ」だけど、普通のボックスCD4枚とBlu-ray2枚というパッケージでも今日だか昨日だかから購入出来るそうです。HMVでもタワーでも、はたまたAmazonでも、「ベルリンフィル ジョン・アダムス・エディション」でググれば、簡単に購入出来る筈。

中身は、昨シーズン、レジデント・アーティストだったアダムスの作品でベルリンフィルが演奏したものを全て収めたという、まあとんでもない代物です。どう考えても日本で100セット売れるか売れないかでしょうが、ともかく、ベルリンフィル自主レーベルのひとつの目玉としてドカンと出してしまったわけであります。

本日の記者会見、無論、メインは明日からだかの来日公演についてですが、なんでやくぺん先生如きへっぽこ三流売文業者が呼ばれたのかと思ったら、要は、アダムス関係で本気になって質問したりする奴がいないと困る、ってことだったんでしょーねぇ。

ホントは、サンフランシスコから《西部の娘》初演直前のアダムスが映像で飛び入り参加、なんてビックリでも用意されているのではないかとワクワクしていたんですが(だって、そうでもなきゃ、朝の10時半にねぼすけの音楽評論家共を集めるなんてありえないだろーに、ってね)、残念ながらというか当然ながらというか、それはありませんでした。はい。

ジョン・アダムス・エディション、さあ、皆さん、一家にひとつ、お供えあれっ!ピーター・セラーズ演出の《もうひとりのマリアのための受難曲》も、なんと日本語字幕付きでBlu-rayに収録されておりますよ。

このベルリンフィルのアーティスト・イン・レジデンス、興味深いのは「コンポーザー・イン・レジデンス」ではなかったこと。なんと、1年ベルリンフィルと関わりながら、アダムス御大はベルリンフィルのための新作はひとつとして書いていないのです。この部分、どのような意図だったのかラトル様やらインテンダント様にお尋ねしたかったのだが、「アダムス関係の質問は第2部にしてください」と遮られてしまい、第2部にはもうラトルもインテンダントもおらず、おいおい、でありましたとさ。三文売文業者の哀しさ、まさか朝日様やら産経様、日経様などのスター記者様を押しのけて質問するわけにいきませんからねぇ。←一種の「忖度」だなぁ…ってか、業界内ヒェーラルキー、かな

ま、なにはともあれ、来週にはやくぺん先生も《西部の娘》見物にSFへと参ります。ちなみに、今回のベルリン・フィル日本公演、ウンスク・チン作品はあっても、アダムスの曲はありません。なんなんねん?

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

イサン・ユン生誕100年記念日 [現代音楽]

本日2017年9月17日は、作曲家イサン・ユンの生誕100年のお誕生日でありました。

てなわけで、世界中でさぞや盛り上がったろう、とお思いになるでしょうが…どうも、なぜかそう話は簡単ではなかったようです。ソウルでは特になにかあった感じはなく、前日に個人でピアニストさんが曲を弾いてお祝いしたりしたくらいみたい。

東京では、当電子壁新聞でも紹介させていただきましたフルート奏者吉岡次郎さんの協奏曲リサイタルが雨脚が強くなる中に開催され
001.jpg
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2017-06-22
なるほど、やっぱりこの作曲家さんの音楽のパワーはライブで聴かないとねぇ、とあらためて関させていただきました。吉岡氏の独奏も、大井氏の指揮も、所謂粘りねっとりのイサン・ユン節とはまたちょっと違った、透明さに傾いた音楽でありつつ、パワー炸裂はしっかり、というバランスの取れたものだったのも、ちょっと新鮮でしたです。

夕方過ぎ、この演奏会のことを生誕地統営の音楽ホールのディレクターさんに連絡したところ、東京でもあったとは知らなかった、うちでは今日はこういうのをやっていたんだよ、と返事をいただきました。ほれ。
isan yun 1.jpg
このポスター、この下にまだつづきがいっぱいあるんですけど、全部ハングル文字で、曲も、出演者も、なーんんも判りません。午後3時開演だったことと、チケットが五万₩だった、とかくらいしか判らない。スイマセン、余りにも情けない情報提供で。でも、台風が迫る対馬海峡の向こうでも、ちゃんとお祝いがやられていたことだけは知れて有り難かったです。

なお、統営のホールでは、来る金曜日に春のフェスティバルに登場する統営音楽祭フェステイバル管弦楽団が、イサン・ユンのオーケストラ曲を演奏、大いに祝うことになっています。
http://timf.org/ticket/concertView.do?board_id=53&category=&article_id=5507&date_id=1&pageInfo.page=&search_cond=&onair=y
んで、このオケ、そのまま25日から10月2日まで、ヨーロッパ・ツアーをすることになっておりまする。

よっぽど25日のエルプ・フィルハーモニーの演奏会に行こうかと考えたのですが、なんせ翌日朝の9時からトロンハイムのコンクール1次予選が始まるので、流石にちょっと無茶は出来ないなぁ、と諦めました。残念。

てなわけで、イサン・ユン生誕100年、地味ながらそれなりに盛り上がってます…と敢えて言おう。うん。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

日本フィル&ヤマカズⅡ版《遭遇Ⅱ》の演奏について [現代音楽]

今、都内某所で、明日明後日にサントリーホールで演奏される日本フィル&ヤマカズⅡによる《遭遇Ⅱ》のGPを拝見させていただきました。なんせ、明日の午後に台北に向かってしまうので、本番を見物出来ない。それで、事務局に無茶をいって覗かせていただいた次第。公開GPだったんで、ちょっと気が楽だった。

ええ、この作品、どういうもんか、知りたければ、御本人の公式ページ上にこういう解説があるし
http://ishii.de/maki/ja/works/1971-sogu-2/
音も旧日本フィル&小澤でCDになってて、手に入れようと思えば簡単に手に入る。残念ながら、今時珍しく、youtube上には見当たりませんけど。

今回、何の因果か曲解をかかせていただくこともあって、なかなか手に入れるなど難しい総譜のコピーなどを拝見させていただくことも出来たのですが…これがまあ、大変な代物であります。ぶっちゃけ、まるで違う作品の楽譜がふたつあるだけなんですわ。ひとつは、老人にはとても細かすぎて見えない手書きのオーケストラ譜。もの凄く綺麗なんだけど、なにしろちっちゃくて、細かくて、A3くらいでプリントアウトしてもやっと追えるかどうかというものをB5で出しちゃったので、「絵ずら」にしか見えません。
で、もうひとつは10数ページの邦楽の譜面。とはいえ一応、西洋の譜面になってます。
001.jpg
上の写真で(手の影が写ってるのはご愛敬)、下にあるのがオケ曲で、上にあるのが雅楽の曲。この両方を一緒に演奏する状態を、《遭遇Ⅱ》と呼ぶ。はい。つまり、「曲の名前」というよりも、「ふたつの曲が演奏されている状況の名前」でんな。

で、困ったことに、「オケ曲のこの部分で邦楽曲が入りなさい」「この部分で出なさい」という指示は、なんとまあ、一切、ない。どこをどう重ねていくかは、まるっきり指揮者さん次第となるわけですわ。

本日のGPでも、ともかくオケ曲の練習番号での指示でそっちの楽譜を開き、そこに邦楽がどう入ってくるかをぼーっと待っているしかありませんでした。あ、今、入ってきたぁ、どこだああ、って邦楽の譜面をぺらぺら。音程では判らないから、打楽器系がどう出て来るか、どの楽器に受け渡されているか、必死に目で追いかけるしかない。

ふううう…

で、そんな風にバタバタした状況で実質1回通すのを聴いただけの極めて心許ない状況で感じたことを申せば…この曲、西洋オケと雅楽オケの対立共存じゃなく、西洋オケと邦楽のいろんな楽器の対立共存であるなぁ、ってこと。

去る月曜日、サントリーの小ホールで雅楽オケ大会があって、非常に面白かったです。で、そこで、特に黛作品で感じた「クラスターの組織体としての邦楽オケ」という在り方と、石井氏がこの《遭遇Ⅱ》で用いる邦楽アンサンブルとは、まるっきり違う。石井作品、一言でいえば、邦楽オケじゃなく邦楽器の集合体です。楽譜にも、「笙」とかまとまったパートではなく、3つの笙などの音の動きが別に書いてある。つまり、合奏、ではなく、同じ楽器の違う声部の集まり、なんですね(西洋音楽的に言えば、「オーケストラ」ではなく「室内楽」でんな)。つまり、和声的な歪みとか、響きの濁りとかうねりとか、クラスター的な響きへの関心は、直接には出てこない。ってか、そういうもんを求めてはいない。

へえええ、作曲家さんによって、全然扱いが違うのだなぁ、とビックリでありまする。

ちなみに、日本フィル関係者に拠れば、オケと邦楽合奏の入り方を金曜日と土曜日の公演で違えてみようとマエストロは仰ってるそうな。つまり、2日通えば、まるっきり違うもんが聴ける可能性がある、ってこと。言うまでも無く、現在唯一手に入る旧日本フィルの演奏とも、まるで違ってますし。

そんなこんな、この先、いつ聴けるかわからない作品です、お暇な方は是非、金曜夜と土曜昼、溜池へどうぞ。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

今更ながらのgagakuオーケストラ [現代音楽]

サントリー芸術財団のフェスティバル、コンサートの2日目は所謂「現代邦楽」というか、「雅楽オーケストラ」の夕べでありました。三宅坂じゃなくて溜池、というところがポイントなんでしょうねぇ。

もう面倒な前振り無しで、ぶっちゃけた感想だけ、自分へのメモとして記して起きますと…

いやぁ、面白かったです。なんせ武満の大曲の中でもやってることが最も良く判る著名な作品と、文献で名前ばかり目にするレア作品とを並べ、恐らくは長期的な歴史のスパンでは「20世紀日本の歴史の1945年以降最大の転換点」と言われるであろう1970年代の最初と最後、石油ショックによる経済成長の終焉とヴェトナム戦争敗北及び米中国交回復による宗主国アメリカ合衆国世界戦略のなし崩し的な冷戦後に向けた変化、という背景の激変の中でのふたつの大作(音楽史的には「前衛の終焉」でんな)。両作品の間には、数年前にこのフェスティバルが披露して下さったシュトックハウゼンの《光》サイクルの出発点になった《暦年》が挟まれる事実もイヤでも思い出す。ついでにいえば、この週末には日本フィルさんが同じ会場の大ホールの定期で黛作品と同じ頃の空気の中で作られた(というか、《ノヴェンバー・ステップス》以降…というべきか)石井眞木の《遭遇Ⅱ》を上演して下さるとなると、もうこれは「現代雅楽オーケストラ週間」としか言いようがない状況ではありませんかぁ!

ま、それはそれとして、昨日の演奏会に関して言えば、なるほどねぇ、と思うこと多々。要は、雅楽オーケストラというのは、「西洋風」な訓練をした耳からすれば「前衛が必死にやろうとあれこれ無茶をしていたトーンクラスターの組織化を、さっさとやってたアンサンブル」って聴こえるんだわねぇ。

武満作品は今更どうこう語る必要もない、ある種の洗練さすら感じるもんだからそれはそれとして、黛作品は、もういきなり笙のアンサンブルが「ああああ、《ヴォルーミナ》じゃんかぁ」としか思えない。んで、当然ながらクラスターの組織化ですから「音程によるテーマ提示」なんて基本的に出来ないから、「ブロックの積み上げ」と「繰り返し」で構成されることになってくるわけで…って、それって、まんまメシアンじゃあないかい!

つまり、1970年代という前衛の最後の盛り上がりと終焉の真っ最中に、そんな前衛のやり方をまんま受け入れてくれそうな組織体として雅楽がポンと放り出されたもんだから、もう作曲家たちは大喜び、ってことですわ。そんなワクワクした様子がよーく分かる音楽と、演奏。

なる程ねぇ、シュトックハウゼン御大が《暦年》の経験から、雑音や微分音など西洋の楽譜では乗り切らない音の在り方まで含んだ「スーパーフォーミュラ」という突拍子もないもんを引っ張り出し、《光》という巨大作品の根っこの部分へと至るのであるなぁ、なるほどなあああああああ…などと思いつつ、案外素朴に盛り上がっちゃう黛作品の音響に浸らせていただいたわけでありました。

まあ、こんなこと、今更やくぺん先生が感心したり納得したりするようなもんではなく、判る人は誰でも判ってる事実でしかないのでしょうけど、やっぱり音で体験できるとあれこれ思うところは多い、ってことですわ。

てなわけで、さあ、皆様、週末は実質的にこの現代音楽際の一部みたいなもんとも言える日本フィルの定期に行きましょういきましょー。曲解はこちら。ま、わしがアップするんなら文句もあるまいて。なんせ字数制限が厳しい紙媒体、「とてもじゃないけどお手上げでんがな」って曲解、ゴメンです。
http://www.japanphil.or.jp/orchestra/news/21963
あたしゃ、残念ながら台北にいるので、前日のGPを某所で眺めさせていただく予定であります。

なんと、宣伝じゃないか、この作文。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

正念場のタケミツ [現代音楽]

日本フィルの方に、「マーラーはオマケでこっちが本命だろーに!」と言い続けては呆れ顔をされていたヤマカズⅡ指揮のタケミツ管弦楽曲サイクル、とうとうCDとして発売されるとのことでありまする。
http://www.hmv.co.jp/artist_%E6%AD%A6%E6%BA%80-%E5%BE%B9%EF%BC%881930-1996%EF%BC%89_000000000026548/item_%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E9%9B%86%E3%80%9C%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%80%81%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%80%81%E5%A4%A2%E3%81%AE%E6%99%82%E3%80%81%E4%BB%96%E3%80%80%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%92%8C%E6%A8%B9%EF%BC%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%EF%BC%882SACD%EF%BC%89_8164252

いやぁ、とうとう、完全に作曲家を知らない世代による主要管弦楽曲アンソロジーが世に出るわけですなぁ。選曲も、マーラー・サイクルと一緒に演奏、録音されたという都合もあるのでしょうが、所謂後期タケミツ・サウンド中心の、「戦後前衛」とは一線を画した響きになってからの作品が中心。要は、同時代には「タケミツはすっかり堕落した」と悪口を言われていた作品が中心となってます。少なくとも日本でのマーラー・ルネサンスが、「表現主義再考」とか「新ロマン主義」などという潮流にくっついていたことを考えると、極めて正しい選択でありましょうぞ。

思えば、お亡くなりになる前の岩城宏之さんが、ある公式な場所で「武満さんの演奏は、最近は本人を知らない人も随分とやるようになっている。録音などには、この演奏家が武満さんを知っているかいないか、記すべきではないか」という趣旨の、冗談だか本音だかわからないことを仰ってちょっと場を凍らせかけたことがあったのを思い出します。

ヤマカズⅡの武満サイクル、正真正銘、堂々たる、「武満さんを知らない演奏家」の仕事です。いよいよ、タケミツという作曲家、本当に生き残れるかを問われる正念場となってきたわけですな。

もう爺らは引退、と言える中身でないと、それはそれで困るぞ。うん。

nice!(3)  コメント(3) 
共通テーマ:音楽

大阪で《フランケンシュタイン!!》を演奏する必要があるのか? [現代音楽]

昨日、大阪いずみホールで、いずみシンフォニエッタがいろんなタイプの作曲家の「協奏曲」を4つ並べる、という意欲的な演奏会がありましたです。暑い夏の午後、ましてや裏番組にはフェスティバルホールのバーンスタイン《ミサ曲》とか、兵庫での《フィガロの結婚》とか、はたまたシンフォニーホールではレーピン独奏のN響とか、演奏会てんこ盛りの中、それなりの数の聴衆が席を埋めていたのはスゴいことであります。ホント、関係者の皆様の努力に頭が下がるであります。

大阪湾岸のプリンス古部様が独奏を勤めたジョン・ウィリアムスの、まるでイギリス20世紀前半作品かと思っちゃうようなオーボエ協奏曲とか、イサン・ユンのこんな小さな編成なのにとっても濃厚な響きのクラリネット協奏曲とか、いろいろと面白かったんですが、やっぱり最後に演奏されたハインツ・カール・グルーバーの知る人ぞ知る、ってか、20世紀後半のハチャメチャ系を代表する超有名曲《フランケンシュタイン!!》の室内オケ版、というのが興味深かったでありまする。興味深い、というか、面白い、というか、面白くない、というか…まあ、ともかく、なんじゃろねぇ、と今更ながらに考え込みそうになった。

というのも、その前の晩にフェスティバルホールでかのバーンスタィンの《ミサ曲》を見物しているわけでして、バーンスタインがこの曲創作の最中にグルーバーにアドヴァイスしたという逸話はそれなりに有名で、こうやってほぼ同じ頃に書かれたタイプこそ違えどハチャメチャという意味で音楽史上に名を遺す作品を続けて聞かされると、「なるほどねぇ…」としか言いようがない部分もあるわけでして…

この《フランケンシュタイン!!》という作品、要は、今世紀半ば以降くらいのオーケストレーション技法を次々と繰り出し、そこに面白系の玩具楽器なんぞもじゃんじゃん突っ込み、マイクを用いた声楽家が通常のオペラ発声法とは異なる歌唱法でいろんな声を出して歌う(というか、朗読するというか)歌曲集、であります。テキストは、アメリカンコミックやらを中心に当時のガジェット文化のパロディネタばかりです。オリジナルはドイツ語なのかな、それとも英語なのか、よく知らんです、スイマセン。調べれば直ぐに判るでしょ,今時は。映像はいくらでもあります。これ、とか。って、この映像、何語なの?
https://www.youtube.com/watch?v=iPTJ9mRI4w0

日本では数年前に下野氏が読響でやったのが初演だったというのは驚きだけど、今回も下野氏で、室内オケ版の日本初演だったのでしょうねぇ、恐らく。(追記:これ、間違いでした。事実関係の指摘を川島さんからいただきました。下のコメント欄ご参照あれ。)

この作品のような「いろんな楽器が出て来て楽しく面白可笑しくオーケストラを鳴らしたり、奏者が半分芝居をしたりする」という作品は、ポストモダンのゲンダイオンガクの中ではひとつのジャンルを確立していると言ってもいいくらいで、こういうのが得意な現代作曲家さんもいらっしゃいます。去年の香港の《松風》初演のとき、地元若手作曲家さんにセミナーするために暫く細川氏が香港に滞在しレクチャーやセミナーを行い、その結果発表会みたいな演奏会を見物したんだけど、そこでもこのようなタイプの日本の作曲家さんの作品が紹介され、細川氏とは際立って作風が違い、質疑応答でそこにいた指揮者のイップさんが手を挙げて「どうしてこの作品を選んだんですか」みたいな質問をして、細川さんが「選んだのは僕じゃなくて、国際なんとかかんとかという組織なんですけど…」と苦笑しながらいろいろ解説をなさってました。その場で、細川氏がお使いになっていた「マンガ系作曲家」という言い方が印象深かった。そう、このグローバー作品こそ、正に「マンガ系」の開祖のひとつでんがなぁ。

で、昨日の演奏、このようなマンガ系の常として、何が起きるかワクワク眺めているうちに30分くらいはあっと言う間に過ぎちゃう、という「何をやってるか訳が判らぬゲンダイオンガク」とは真逆の世界が展開し、聴衆もそれなりに楽しんだり笑ったりしてたわけなんだけど…正直、ううううん、と思わざるを得ないこともあった。

というのも、お客さんがいちばん素直に笑っていたのが、唯一日本語で、それも関西弁で語られた部分だった、という事実をどう考えるべきか…ということ。

前の晩のバーンスタインもそうなんだけど、こういうハチャメチャ系作品というのは、時代や文化の背景、コンテクストにもの凄く大きく寄りかかっています。ってか、ベッタリ張り付いている、と言っても過言ではない。1971年のアメリカ合衆国社会という背景を引き離したところで《ミサ曲》受容が成り立つのか、という議論と同じように、1970年代頃のアメリカン・コミックやガジェット文化の背景をなくしては《フランケンシュタイン!!》という作品は笑いたくても笑えない。無論、スーパーマンやらフランケンシュタインやらバットマンやら、ハリウッド映画の大事なドル箱で何度もリメイクされてますから、2017年の大阪文化圏に生きている人々はそれなりに知ってはいるでしょうけど(なんせ大阪はUSJの本拠地ですしねぇ)、英語の歌詞でそれをやられて、どこまで反応出来るものか。かといって、こういう作品は先にプレトークやら曲解やらでネタバレをしちゃうと、「さっき言ってたことはどこで起こるのかな」という関心が先に立ってしまって、ホントに面白い部分から関心がズレてしまったりもする。うううん、難しいなぁ。

てなわけで、いずみホールから伊丹空港まで吹っ飛んで行く忙しない道中、隣の席に座ってたうちのお嫁ちゃんとあれやこれや話した不届き極まりない結論は…

「今日の演奏で《フランケンシュタイン!!》は判った。これはこれでご苦労様、楽しかったです、と感謝するわけだが、次にいずみホール&いずみシンフォニエッタがやるべきは、この趣旨の、若しくはこの趣旨を越えるベッタリ大阪版の作品を委嘱し、会場を爆笑の渦に巻き込むことではあるまいか。流石に西村先生というわけにはいかないだろうけど、例えば川島さんに頼んで、独唱・独奏を吉本新喜劇のトロンボーン吹く女優さんかなんかに頼んで、ベタベタ浪花なギャグ満載の30分くらいのマンガ系室内オケ曲を作り、呆れられるほど繰り返し演奏し、世間に広めて欲しいものであーる!」

以上、いずみホールの方に言ったら呆れられそうな話でありましたとさ。ちゃんちゃん。

さてと、今まで、ミューザ川崎の下の喫茶店に陣取ってたのですけど、そろそろ細川氏の近作を聴きに参ります。正反対の、ちょーシリアス系ゲンダイオンガクじゃのう。世界は広いわい、ばーさんや。

nice!(5)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

バーンスタイン《ミサ曲》は聴きにいく価値があるか [現代音楽]

昨晩、大阪の新装成ったフェスティバルホールで、レナード・バーンスタインの《ミサ曲》が上演されました。
023.jpg
なかなかの賑わいで、やたらと知った顔も見かける状況で、一安心というか、ちょっとビックリというか。

ええ、世の中には、「異端のミサ」と呼ぶべき作品群があります。どれが最初かと言い出せばいろいろなんだろうが、歴史の中で生き残っている一番古い大物は、なんといってもベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》でんがな。20世紀に入ると,理由はどうあれ、次々と出て来るのだが、まあ作品の在り方がイロモノなだけに、繰り返し演奏されて生き残っている作品は殆どない。強いて言えばディーリアスの《人生のミサ》(ミサでもなんでもなく、ニーチェの「ツァラトゥストラ」断片を並べたもんだけど)とか…くらいかしら。そのような異端のミサ作品の例外的な頂点として、ブリテンの《戦争レクイエム》があるわけで、ぶっちゃけ、こういう作品は世紀にひとつくらい滅茶苦茶スゴい傑作が生まれるくらいなもんなんだろーなー、と思うわけでありまする。

んで、この、バーンスタインの《ミサ曲》でありまする。指揮者として引退し、これからは作曲家として生きていくと宣言しちゃったバーンスタインが、ワシントンDCのケネディ・センターこけら落としのために委嘱され作曲した、まあ、絵に描いたような「異端のミサ」でありまする。

なにせヴェトナム戦争も出口を探している末期、ポトマック河の向こうはペンタゴンで、ホワイトハウスに陣取っているのはニクソンという時代。「ミサ」という宗教行事のパーフォーマンスを軸に、その時代にその場所で鳴っていた様々な音楽の有り様をおもちゃ箱のように突っ込み、ミサテキストに突っ込みを入れ、ミサを司る司祭を主人公に「神を信じるって、じゃあ、神様は俺たちを信じてくれるのか」というヨブ的な叫びを上げちゃうトンデモ作品。ある意味、究極の機会音楽でありますな。

当然、繰り返し上演されるもんではなく、今回は井上みっちー氏の情熱に周囲を巻き込み、バーンスタィン生誕100年というタイミングに乗っけてやっちゃった。

さても、あと数時間で2度目の公演が始まるわけですけど、この瞬間に「いこーかなー、どーしよーかなぁ」とお考えの貴方に、やくぺん先生が無責任な断言をしてあげましょー。

この作品、作品としては誰がどう見ても失敗作です。なにより、バーンスタインがいかに大きな才能でも、ひとりでひとつの時代の音楽を全部描き切るなんぞ、それこそ神様でもなければ到底不可能。だから、あらゆる部分が中途半端です。どうしてそうなっちゃったかを議論し始めるとそれはそれで面白いんだけど、ま、事実として、完成度は低い。これはもう、どーしよーもない。

当然、「作品として与えられる感動」とは違う、強いて言えば、当惑とか、なんじゃこりゃ感とか、そっちばかりが残る。

でも、世の中には、「失敗作であることが意義がある」という作品もある。その意味では、この作品は正に「失敗していることを眺め,体験することが作品」というもんです。

だから、バーンスタインという個性に関心があり、共感する人は、必見です。でも、作品としての完成度や、最近乱売気味の「感動」をお金で買いたい人は、行く必要はありません。

以上、「書いてあることは嘘ばかり、信じるな」をモットーとする当電子壁新聞の断言でありましたぁ。

nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

突っ込み処満載「20世紀を形作った傑作選」 [現代音楽]

このカテゴリーぴったりの与太話なのに、なんかちょっと、あらためて違和感があるなぁ。

某アメリカ音楽研究者の方から、こういうアンソロジーが出るよ、と教えていただきました。
http://www.hmv.co.jp/en/artist_Box-Set-Classical_000000000088040/item_20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E5%BD%A2%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8B%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E7%AC%AC1%E9%9B%86%EF%BC%8828CD%EF%BC%89_7300270
http://www.hmv.co.jp/en/artist_Classical-Collection-Boxed-Set_000000000088040/item_Shaping-The-Century-Vol-2-1950-2000-26CD_7730447
本来はDGのサイトを紹介すべきなんでしょうけど、ここなら今ならセットで4つ買えば大値引き、ってやってて(これ、セット、ってどういう意味なのかしら?28枚組と26枚組をどかんと買ってもふたつにしか数えぬぞ、ってことなのかしらね?←関係者の方、眺めたらコメント欄に突っ込み入れてちょ)、まとめ買いならアホみたいに安いですからねぇ。

さても、この箱をふたつゴロゴロと並べ、一生懸命聴けば、総計60時間くらいで貴方も20世紀という時間の「芸術音楽(敢えて「クラシック音楽」とは言いません、「シリアス・ミュージック」という言い方が最も適切なんでしょうが)」が鳥瞰できる、という趣旨なんでしょうけど…うううん、ちょっとマズいだろ-に。

ってか、このアンソロジー、「貴方はどの程度20世紀作品に対し言いたいことがあるか」チェックみたいなもんですな。だってさぁ、関心が無い人は「ああそうなんだ、俺には関係ないけどさ」で終わりだろうし、ある程度以上関心のある方なら「おいおいおい、天下のDG様が仰る20世紀で重要な作品ラインナップというのはこれかいな。どうしてあれが入らない、なんでそれを落とした、喧々囂々…」となること必至だし。

やくぺん先生の如き街場の隠居爺が眺めても、いろいろ突っ込みたくなること満載なリストでんな。演奏家に関しては、香港の最終兵器ナクソスに破れ過去の栄光で食いつなぐしかない哀れなかつての名門が遺産食いつぶしでやってる企画なんだから仕方ないとしても(←天下のイエローレーベルに向かって、なんと散々な言いようだぁ!)、やっぱりこれはちょっとマズいだろう、と思わざるを得ないところがある。まあ、ホントに「歴史観」の問題なんでしょうけどねぇ。

なによりも言いたいのは…「20世紀に所謂芸術音楽で最も発展(という19世紀的な概念を敢えて用いれば)したのは舞踏(含むオペラの一部)、それに協奏曲と室内楽。逆に衰退し無用なジャンルとなったのが交響曲」という音楽史の常識から考えれば、さすがにちょっと選曲が偏りすぎじゃないかい!!!

レーベルの性格から、所謂メイジャーオケやらメイジャー演奏家、メイジャーな団体のレパートリーになるものが選択の基準となってるのは仕方ないでしょう。オペラはともかく、協奏曲はそれなりに入ってますね。けど、それにしても指揮者無しの室内楽が数曲しかないって、あり得ないだろーに。せめてバルトークの第3弦楽四重奏かリゲティの2番くらい、どっかの余白にちょろっと入れられなかったのかしら。なんか、哀しいなぁ…

ま、そんなこんな、それぞれの見方、立場、関心によって突っ込み処満載の「20世紀を形作った音楽」シリーズ、暑くて外に出る気にならんとき、2万円ちょっとで60時間、楽しく過ごしてみてはいかがかしら。

がっつりレコード屋さんの宣伝をしてしまったぁ。

nice!(4)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽
前の10件 | - 現代音楽 ブログトップ