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イサン・ユン生誕100年記念日 [現代音楽]

本日2017年9月17日は、作曲家イサン・ユンの生誕100年のお誕生日でありました。

てなわけで、世界中でさぞや盛り上がったろう、とお思いになるでしょうが…どうも、なぜかそう話は簡単ではなかったようです。ソウルでは特になにかあった感じはなく、前日に個人でピアニストさんが曲を弾いてお祝いしたりしたくらいみたい。

東京では、当電子壁新聞でも紹介させていただきましたフルート奏者吉岡次郎さんの協奏曲リサイタルが雨脚が強くなる中に開催され
001.jpg
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2017-06-22
なるほど、やっぱりこの作曲家さんの音楽のパワーはライブで聴かないとねぇ、とあらためて関させていただきました。吉岡氏の独奏も、大井氏の指揮も、所謂粘りねっとりのイサン・ユン節とはまたちょっと違った、透明さに傾いた音楽でありつつ、パワー炸裂はしっかり、というバランスの取れたものだったのも、ちょっと新鮮でしたです。

夕方過ぎ、この演奏会のことを生誕地統営の音楽ホールのディレクターさんに連絡したところ、東京でもあったとは知らなかった、うちでは今日はこういうのをやっていたんだよ、と返事をいただきました。ほれ。
isan yun 1.jpg
このポスター、この下にまだつづきがいっぱいあるんですけど、全部ハングル文字で、曲も、出演者も、なーんんも判りません。午後3時開演だったことと、チケットが五万₩だった、とかくらいしか判らない。スイマセン、余りにも情けない情報提供で。でも、台風が迫る対馬海峡の向こうでも、ちゃんとお祝いがやられていたことだけは知れて有り難かったです。

なお、統営のホールでは、来る金曜日に春のフェスティバルに登場する統営音楽祭フェステイバル管弦楽団が、イサン・ユンのオーケストラ曲を演奏、大いに祝うことになっています。
http://timf.org/ticket/concertView.do?board_id=53&category=&article_id=5507&date_id=1&pageInfo.page=&search_cond=&onair=y
んで、このオケ、そのまま25日から10月2日まで、ヨーロッパ・ツアーをすることになっておりまする。

よっぽど25日のエルプ・フィルハーモニーの演奏会に行こうかと考えたのですが、なんせ翌日朝の9時からトロンハイムのコンクール1次予選が始まるので、流石にちょっと無茶は出来ないなぁ、と諦めました。残念。

てなわけで、イサン・ユン生誕100年、地味ながらそれなりに盛り上がってます…と敢えて言おう。うん。

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日本フィル&ヤマカズⅡ版《遭遇Ⅱ》の演奏について [現代音楽]

今、都内某所で、明日明後日にサントリーホールで演奏される日本フィル&ヤマカズⅡによる《遭遇Ⅱ》のGPを拝見させていただきました。なんせ、明日の午後に台北に向かってしまうので、本番を見物出来ない。それで、事務局に無茶をいって覗かせていただいた次第。公開GPだったんで、ちょっと気が楽だった。

ええ、この作品、どういうもんか、知りたければ、御本人の公式ページ上にこういう解説があるし
http://ishii.de/maki/ja/works/1971-sogu-2/
音も旧日本フィル&小澤でCDになってて、手に入れようと思えば簡単に手に入る。残念ながら、今時珍しく、youtube上には見当たりませんけど。

今回、何の因果か曲解をかかせていただくこともあって、なかなか手に入れるなど難しい総譜のコピーなどを拝見させていただくことも出来たのですが…これがまあ、大変な代物であります。ぶっちゃけ、まるで違う作品の楽譜がふたつあるだけなんですわ。ひとつは、老人にはとても細かすぎて見えない手書きのオーケストラ譜。もの凄く綺麗なんだけど、なにしろちっちゃくて、細かくて、A3くらいでプリントアウトしてもやっと追えるかどうかというものをB5で出しちゃったので、「絵ずら」にしか見えません。
で、もうひとつは10数ページの邦楽の譜面。とはいえ一応、西洋の譜面になってます。
001.jpg
上の写真で(手の影が写ってるのはご愛敬)、下にあるのがオケ曲で、上にあるのが雅楽の曲。この両方を一緒に演奏する状態を、《遭遇Ⅱ》と呼ぶ。はい。つまり、「曲の名前」というよりも、「ふたつの曲が演奏されている状況の名前」でんな。

で、困ったことに、「オケ曲のこの部分で邦楽曲が入りなさい」「この部分で出なさい」という指示は、なんとまあ、一切、ない。どこをどう重ねていくかは、まるっきり指揮者さん次第となるわけですわ。

本日のGPでも、ともかくオケ曲の練習番号での指示でそっちの楽譜を開き、そこに邦楽がどう入ってくるかをぼーっと待っているしかありませんでした。あ、今、入ってきたぁ、どこだああ、って邦楽の譜面をぺらぺら。音程では判らないから、打楽器系がどう出て来るか、どの楽器に受け渡されているか、必死に目で追いかけるしかない。

ふううう…

で、そんな風にバタバタした状況で実質1回通すのを聴いただけの極めて心許ない状況で感じたことを申せば…この曲、西洋オケと雅楽オケの対立共存じゃなく、西洋オケと邦楽のいろんな楽器の対立共存であるなぁ、ってこと。

去る月曜日、サントリーの小ホールで雅楽オケ大会があって、非常に面白かったです。で、そこで、特に黛作品で感じた「クラスターの組織体としての邦楽オケ」という在り方と、石井氏がこの《遭遇Ⅱ》で用いる邦楽アンサンブルとは、まるっきり違う。石井作品、一言でいえば、邦楽オケじゃなく邦楽器の集合体です。楽譜にも、「笙」とかまとまったパートではなく、3つの笙などの音の動きが別に書いてある。つまり、合奏、ではなく、同じ楽器の違う声部の集まり、なんですね(西洋音楽的に言えば、「オーケストラ」ではなく「室内楽」でんな)。つまり、和声的な歪みとか、響きの濁りとかうねりとか、クラスター的な響きへの関心は、直接には出てこない。ってか、そういうもんを求めてはいない。

へえええ、作曲家さんによって、全然扱いが違うのだなぁ、とビックリでありまする。

ちなみに、日本フィル関係者に拠れば、オケと邦楽合奏の入り方を金曜日と土曜日の公演で違えてみようとマエストロは仰ってるそうな。つまり、2日通えば、まるっきり違うもんが聴ける可能性がある、ってこと。言うまでも無く、現在唯一手に入る旧日本フィルの演奏とも、まるで違ってますし。

そんなこんな、この先、いつ聴けるかわからない作品です、お暇な方は是非、金曜夜と土曜昼、溜池へどうぞ。

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今更ながらのgagakuオーケストラ [現代音楽]

サントリー芸術財団のフェスティバル、コンサートの2日目は所謂「現代邦楽」というか、「雅楽オーケストラ」の夕べでありました。三宅坂じゃなくて溜池、というところがポイントなんでしょうねぇ。

もう面倒な前振り無しで、ぶっちゃけた感想だけ、自分へのメモとして記して起きますと…

いやぁ、面白かったです。なんせ武満の大曲の中でもやってることが最も良く判る著名な作品と、文献で名前ばかり目にするレア作品とを並べ、恐らくは長期的な歴史のスパンでは「20世紀日本の歴史の1945年以降最大の転換点」と言われるであろう1970年代の最初と最後、石油ショックによる経済成長の終焉とヴェトナム戦争敗北及び米中国交回復による宗主国アメリカ合衆国世界戦略のなし崩し的な冷戦後に向けた変化、という背景の激変の中でのふたつの大作(音楽史的には「前衛の終焉」でんな)。両作品の間には、数年前にこのフェスティバルが披露して下さったシュトックハウゼンの《光》サイクルの出発点になった《暦年》が挟まれる事実もイヤでも思い出す。ついでにいえば、この週末には日本フィルさんが同じ会場の大ホールの定期で黛作品と同じ頃の空気の中で作られた(というか、《ノヴェンバー・ステップス》以降…というべきか)石井眞木の《遭遇Ⅱ》を上演して下さるとなると、もうこれは「現代雅楽オーケストラ週間」としか言いようがない状況ではありませんかぁ!

ま、それはそれとして、昨日の演奏会に関して言えば、なるほどねぇ、と思うこと多々。要は、雅楽オーケストラというのは、「西洋風」な訓練をした耳からすれば「前衛が必死にやろうとあれこれ無茶をしていたトーンクラスターの組織化を、さっさとやってたアンサンブル」って聴こえるんだわねぇ。

武満作品は今更どうこう語る必要もない、ある種の洗練さすら感じるもんだからそれはそれとして、黛作品は、もういきなり笙のアンサンブルが「ああああ、《ヴォルーミナ》じゃんかぁ」としか思えない。んで、当然ながらクラスターの組織化ですから「音程によるテーマ提示」なんて基本的に出来ないから、「ブロックの積み上げ」と「繰り返し」で構成されることになってくるわけで…って、それって、まんまメシアンじゃあないかい!

つまり、1970年代という前衛の最後の盛り上がりと終焉の真っ最中に、そんな前衛のやり方をまんま受け入れてくれそうな組織体として雅楽がポンと放り出されたもんだから、もう作曲家たちは大喜び、ってことですわ。そんなワクワクした様子がよーく分かる音楽と、演奏。

なる程ねぇ、シュトックハウゼン御大が《暦年》の経験から、雑音や微分音など西洋の楽譜では乗り切らない音の在り方まで含んだ「スーパーフォーミュラ」という突拍子もないもんを引っ張り出し、《光》という巨大作品の根っこの部分へと至るのであるなぁ、なるほどなあああああああ…などと思いつつ、案外素朴に盛り上がっちゃう黛作品の音響に浸らせていただいたわけでありました。

まあ、こんなこと、今更やくぺん先生が感心したり納得したりするようなもんではなく、判る人は誰でも判ってる事実でしかないのでしょうけど、やっぱり音で体験できるとあれこれ思うところは多い、ってことですわ。

てなわけで、さあ、皆様、週末は実質的にこの現代音楽際の一部みたいなもんとも言える日本フィルの定期に行きましょういきましょー。曲解はこちら。ま、わしがアップするんなら文句もあるまいて。なんせ字数制限が厳しい紙媒体、「とてもじゃないけどお手上げでんがな」って曲解、ゴメンです。
http://www.japanphil.or.jp/orchestra/news/21963
あたしゃ、残念ながら台北にいるので、前日のGPを某所で眺めさせていただく予定であります。

なんと、宣伝じゃないか、この作文。

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正念場のタケミツ [現代音楽]

日本フィルの方に、「マーラーはオマケでこっちが本命だろーに!」と言い続けては呆れ顔をされていたヤマカズⅡ指揮のタケミツ管弦楽曲サイクル、とうとうCDとして発売されるとのことでありまする。
http://www.hmv.co.jp/artist_%E6%AD%A6%E6%BA%80-%E5%BE%B9%EF%BC%881930-1996%EF%BC%89_000000000026548/item_%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E9%9B%86%E3%80%9C%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%80%81%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%80%81%E5%A4%A2%E3%81%AE%E6%99%82%E3%80%81%E4%BB%96%E3%80%80%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%92%8C%E6%A8%B9%EF%BC%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%EF%BC%882SACD%EF%BC%89_8164252

いやぁ、とうとう、完全に作曲家を知らない世代による主要管弦楽曲アンソロジーが世に出るわけですなぁ。選曲も、マーラー・サイクルと一緒に演奏、録音されたという都合もあるのでしょうが、所謂後期タケミツ・サウンド中心の、「戦後前衛」とは一線を画した響きになってからの作品が中心。要は、同時代には「タケミツはすっかり堕落した」と悪口を言われていた作品が中心となってます。少なくとも日本でのマーラー・ルネサンスが、「表現主義再考」とか「新ロマン主義」などという潮流にくっついていたことを考えると、極めて正しい選択でありましょうぞ。

思えば、お亡くなりになる前の岩城宏之さんが、ある公式な場所で「武満さんの演奏は、最近は本人を知らない人も随分とやるようになっている。録音などには、この演奏家が武満さんを知っているかいないか、記すべきではないか」という趣旨の、冗談だか本音だかわからないことを仰ってちょっと場を凍らせかけたことがあったのを思い出します。

ヤマカズⅡの武満サイクル、正真正銘、堂々たる、「武満さんを知らない演奏家」の仕事です。いよいよ、タケミツという作曲家、本当に生き残れるかを問われる正念場となってきたわけですな。

もう爺らは引退、と言える中身でないと、それはそれで困るぞ。うん。

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大阪で《フランケンシュタイン!!》を演奏する必要があるのか? [現代音楽]

昨日、大阪いずみホールで、いずみシンフォニエッタがいろんなタイプの作曲家の「協奏曲」を4つ並べる、という意欲的な演奏会がありましたです。暑い夏の午後、ましてや裏番組にはフェスティバルホールのバーンスタイン《ミサ曲》とか、兵庫での《フィガロの結婚》とか、はたまたシンフォニーホールではレーピン独奏のN響とか、演奏会てんこ盛りの中、それなりの数の聴衆が席を埋めていたのはスゴいことであります。ホント、関係者の皆様の努力に頭が下がるであります。

大阪湾岸のプリンス古部様が独奏を勤めたジョン・ウィリアムスの、まるでイギリス20世紀前半作品かと思っちゃうようなオーボエ協奏曲とか、イサン・ユンのこんな小さな編成なのにとっても濃厚な響きのクラリネット協奏曲とか、いろいろと面白かったんですが、やっぱり最後に演奏されたハインツ・カール・グルーバーの知る人ぞ知る、ってか、20世紀後半のハチャメチャ系を代表する超有名曲《フランケンシュタイン!!》の室内オケ版、というのが興味深かったでありまする。興味深い、というか、面白い、というか、面白くない、というか…まあ、ともかく、なんじゃろねぇ、と今更ながらに考え込みそうになった。

というのも、その前の晩にフェスティバルホールでかのバーンスタィンの《ミサ曲》を見物しているわけでして、バーンスタインがこの曲創作の最中にグルーバーにアドヴァイスしたという逸話はそれなりに有名で、こうやってほぼ同じ頃に書かれたタイプこそ違えどハチャメチャという意味で音楽史上に名を遺す作品を続けて聞かされると、「なるほどねぇ…」としか言いようがない部分もあるわけでして…

この《フランケンシュタイン!!》という作品、要は、今世紀半ば以降くらいのオーケストレーション技法を次々と繰り出し、そこに面白系の玩具楽器なんぞもじゃんじゃん突っ込み、マイクを用いた声楽家が通常のオペラ発声法とは異なる歌唱法でいろんな声を出して歌う(というか、朗読するというか)歌曲集、であります。テキストは、アメリカンコミックやらを中心に当時のガジェット文化のパロディネタばかりです。オリジナルはドイツ語なのかな、それとも英語なのか、よく知らんです、スイマセン。調べれば直ぐに判るでしょ,今時は。映像はいくらでもあります。これ、とか。って、この映像、何語なの?
https://www.youtube.com/watch?v=iPTJ9mRI4w0

日本では数年前に下野氏が読響でやったのが初演だったというのは驚きだけど、今回も下野氏で、室内オケ版の日本初演だったのでしょうねぇ、恐らく。(追記:これ、間違いでした。事実関係の指摘を川島さんからいただきました。下のコメント欄ご参照あれ。)

この作品のような「いろんな楽器が出て来て楽しく面白可笑しくオーケストラを鳴らしたり、奏者が半分芝居をしたりする」という作品は、ポストモダンのゲンダイオンガクの中ではひとつのジャンルを確立していると言ってもいいくらいで、こういうのが得意な現代作曲家さんもいらっしゃいます。去年の香港の《松風》初演のとき、地元若手作曲家さんにセミナーするために暫く細川氏が香港に滞在しレクチャーやセミナーを行い、その結果発表会みたいな演奏会を見物したんだけど、そこでもこのようなタイプの日本の作曲家さんの作品が紹介され、細川氏とは際立って作風が違い、質疑応答でそこにいた指揮者のイップさんが手を挙げて「どうしてこの作品を選んだんですか」みたいな質問をして、細川さんが「選んだのは僕じゃなくて、国際なんとかかんとかという組織なんですけど…」と苦笑しながらいろいろ解説をなさってました。その場で、細川氏がお使いになっていた「マンガ系作曲家」という言い方が印象深かった。そう、このグローバー作品こそ、正に「マンガ系」の開祖のひとつでんがなぁ。

で、昨日の演奏、このようなマンガ系の常として、何が起きるかワクワク眺めているうちに30分くらいはあっと言う間に過ぎちゃう、という「何をやってるか訳が判らぬゲンダイオンガク」とは真逆の世界が展開し、聴衆もそれなりに楽しんだり笑ったりしてたわけなんだけど…正直、ううううん、と思わざるを得ないこともあった。

というのも、お客さんがいちばん素直に笑っていたのが、唯一日本語で、それも関西弁で語られた部分だった、という事実をどう考えるべきか…ということ。

前の晩のバーンスタインもそうなんだけど、こういうハチャメチャ系作品というのは、時代や文化の背景、コンテクストにもの凄く大きく寄りかかっています。ってか、ベッタリ張り付いている、と言っても過言ではない。1971年のアメリカ合衆国社会という背景を引き離したところで《ミサ曲》受容が成り立つのか、という議論と同じように、1970年代頃のアメリカン・コミックやガジェット文化の背景をなくしては《フランケンシュタイン!!》という作品は笑いたくても笑えない。無論、スーパーマンやらフランケンシュタインやらバットマンやら、ハリウッド映画の大事なドル箱で何度もリメイクされてますから、2017年の大阪文化圏に生きている人々はそれなりに知ってはいるでしょうけど(なんせ大阪はUSJの本拠地ですしねぇ)、英語の歌詞でそれをやられて、どこまで反応出来るものか。かといって、こういう作品は先にプレトークやら曲解やらでネタバレをしちゃうと、「さっき言ってたことはどこで起こるのかな」という関心が先に立ってしまって、ホントに面白い部分から関心がズレてしまったりもする。うううん、難しいなぁ。

てなわけで、いずみホールから伊丹空港まで吹っ飛んで行く忙しない道中、隣の席に座ってたうちのお嫁ちゃんとあれやこれや話した不届き極まりない結論は…

「今日の演奏で《フランケンシュタイン!!》は判った。これはこれでご苦労様、楽しかったです、と感謝するわけだが、次にいずみホール&いずみシンフォニエッタがやるべきは、この趣旨の、若しくはこの趣旨を越えるベッタリ大阪版の作品を委嘱し、会場を爆笑の渦に巻き込むことではあるまいか。流石に西村先生というわけにはいかないだろうけど、例えば川島さんに頼んで、独唱・独奏を吉本新喜劇のトロンボーン吹く女優さんかなんかに頼んで、ベタベタ浪花なギャグ満載の30分くらいのマンガ系室内オケ曲を作り、呆れられるほど繰り返し演奏し、世間に広めて欲しいものであーる!」

以上、いずみホールの方に言ったら呆れられそうな話でありましたとさ。ちゃんちゃん。

さてと、今まで、ミューザ川崎の下の喫茶店に陣取ってたのですけど、そろそろ細川氏の近作を聴きに参ります。正反対の、ちょーシリアス系ゲンダイオンガクじゃのう。世界は広いわい、ばーさんや。

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バーンスタイン《ミサ曲》は聴きにいく価値があるか [現代音楽]

昨晩、大阪の新装成ったフェスティバルホールで、レナード・バーンスタインの《ミサ曲》が上演されました。
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なかなかの賑わいで、やたらと知った顔も見かける状況で、一安心というか、ちょっとビックリというか。

ええ、世の中には、「異端のミサ」と呼ぶべき作品群があります。どれが最初かと言い出せばいろいろなんだろうが、歴史の中で生き残っている一番古い大物は、なんといってもベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》でんがな。20世紀に入ると,理由はどうあれ、次々と出て来るのだが、まあ作品の在り方がイロモノなだけに、繰り返し演奏されて生き残っている作品は殆どない。強いて言えばディーリアスの《人生のミサ》(ミサでもなんでもなく、ニーチェの「ツァラトゥストラ」断片を並べたもんだけど)とか…くらいかしら。そのような異端のミサ作品の例外的な頂点として、ブリテンの《戦争レクイエム》があるわけで、ぶっちゃけ、こういう作品は世紀にひとつくらい滅茶苦茶スゴい傑作が生まれるくらいなもんなんだろーなー、と思うわけでありまする。

んで、この、バーンスタインの《ミサ曲》でありまする。指揮者として引退し、これからは作曲家として生きていくと宣言しちゃったバーンスタインが、ワシントンDCのケネディ・センターこけら落としのために委嘱され作曲した、まあ、絵に描いたような「異端のミサ」でありまする。

なにせヴェトナム戦争も出口を探している末期、ポトマック河の向こうはペンタゴンで、ホワイトハウスに陣取っているのはニクソンという時代。「ミサ」という宗教行事のパーフォーマンスを軸に、その時代にその場所で鳴っていた様々な音楽の有り様をおもちゃ箱のように突っ込み、ミサテキストに突っ込みを入れ、ミサを司る司祭を主人公に「神を信じるって、じゃあ、神様は俺たちを信じてくれるのか」というヨブ的な叫びを上げちゃうトンデモ作品。ある意味、究極の機会音楽でありますな。

当然、繰り返し上演されるもんではなく、今回は井上みっちー氏の情熱に周囲を巻き込み、バーンスタィン生誕100年というタイミングに乗っけてやっちゃった。

さても、あと数時間で2度目の公演が始まるわけですけど、この瞬間に「いこーかなー、どーしよーかなぁ」とお考えの貴方に、やくぺん先生が無責任な断言をしてあげましょー。

この作品、作品としては誰がどう見ても失敗作です。なにより、バーンスタインがいかに大きな才能でも、ひとりでひとつの時代の音楽を全部描き切るなんぞ、それこそ神様でもなければ到底不可能。だから、あらゆる部分が中途半端です。どうしてそうなっちゃったかを議論し始めるとそれはそれで面白いんだけど、ま、事実として、完成度は低い。これはもう、どーしよーもない。

当然、「作品として与えられる感動」とは違う、強いて言えば、当惑とか、なんじゃこりゃ感とか、そっちばかりが残る。

でも、世の中には、「失敗作であることが意義がある」という作品もある。その意味では、この作品は正に「失敗していることを眺め,体験することが作品」というもんです。

だから、バーンスタインという個性に関心があり、共感する人は、必見です。でも、作品としての完成度や、最近乱売気味の「感動」をお金で買いたい人は、行く必要はありません。

以上、「書いてあることは嘘ばかり、信じるな」をモットーとする当電子壁新聞の断言でありましたぁ。

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突っ込み処満載「20世紀を形作った傑作選」 [現代音楽]

このカテゴリーぴったりの与太話なのに、なんかちょっと、あらためて違和感があるなぁ。

某アメリカ音楽研究者の方から、こういうアンソロジーが出るよ、と教えていただきました。
http://www.hmv.co.jp/en/artist_Box-Set-Classical_000000000088040/item_20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E5%BD%A2%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8B%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E7%AC%AC1%E9%9B%86%EF%BC%8828CD%EF%BC%89_7300270
http://www.hmv.co.jp/en/artist_Classical-Collection-Boxed-Set_000000000088040/item_Shaping-The-Century-Vol-2-1950-2000-26CD_7730447
本来はDGのサイトを紹介すべきなんでしょうけど、ここなら今ならセットで4つ買えば大値引き、ってやってて(これ、セット、ってどういう意味なのかしら?28枚組と26枚組をどかんと買ってもふたつにしか数えぬぞ、ってことなのかしらね?←関係者の方、眺めたらコメント欄に突っ込み入れてちょ)、まとめ買いならアホみたいに安いですからねぇ。

さても、この箱をふたつゴロゴロと並べ、一生懸命聴けば、総計60時間くらいで貴方も20世紀という時間の「芸術音楽(敢えて「クラシック音楽」とは言いません、「シリアス・ミュージック」という言い方が最も適切なんでしょうが)」が鳥瞰できる、という趣旨なんでしょうけど…うううん、ちょっとマズいだろ-に。

ってか、このアンソロジー、「貴方はどの程度20世紀作品に対し言いたいことがあるか」チェックみたいなもんですな。だってさぁ、関心が無い人は「ああそうなんだ、俺には関係ないけどさ」で終わりだろうし、ある程度以上関心のある方なら「おいおいおい、天下のDG様が仰る20世紀で重要な作品ラインナップというのはこれかいな。どうしてあれが入らない、なんでそれを落とした、喧々囂々…」となること必至だし。

やくぺん先生の如き街場の隠居爺が眺めても、いろいろ突っ込みたくなること満載なリストでんな。演奏家に関しては、香港の最終兵器ナクソスに破れ過去の栄光で食いつなぐしかない哀れなかつての名門が遺産食いつぶしでやってる企画なんだから仕方ないとしても(←天下のイエローレーベルに向かって、なんと散々な言いようだぁ!)、やっぱりこれはちょっとマズいだろう、と思わざるを得ないところがある。まあ、ホントに「歴史観」の問題なんでしょうけどねぇ。

なによりも言いたいのは…「20世紀に所謂芸術音楽で最も発展(という19世紀的な概念を敢えて用いれば)したのは舞踏(含むオペラの一部)、それに協奏曲と室内楽。逆に衰退し無用なジャンルとなったのが交響曲」という音楽史の常識から考えれば、さすがにちょっと選曲が偏りすぎじゃないかい!!!

レーベルの性格から、所謂メイジャーオケやらメイジャー演奏家、メイジャーな団体のレパートリーになるものが選択の基準となってるのは仕方ないでしょう。オペラはともかく、協奏曲はそれなりに入ってますね。けど、それにしても指揮者無しの室内楽が数曲しかないって、あり得ないだろーに。せめてバルトークの第3弦楽四重奏かリゲティの2番くらい、どっかの余白にちょろっと入れられなかったのかしら。なんか、哀しいなぁ…

ま、そんなこんな、それぞれの見方、立場、関心によって突っ込み処満載の「20世紀を形作った音楽」シリーズ、暑くて外に出る気にならんとき、2万円ちょっとで60時間、楽しく過ごしてみてはいかがかしら。

がっつりレコード屋さんの宣伝をしてしまったぁ。

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なぜ韓国でイサン・ユン生誕100年が今ひとつ盛りあがらないか [現代音楽]

今年2017年は、作曲家イサン・ユンの生誕100年でありまする。生誕地統営では、記念日の9月にはハインツ・ホリガー指揮フェスティバル・オーケストラで記念演奏会が開催されたりしますです。
http://timf.org/eng/ticket/concertView.do?board_id=153&article_id=5506
日本でも…って言いたいところだが、あんまり、ってか、全然盛りあがっていない。ひとつだけ、100歳のお誕生日の9月17日に、フルートの吉岡次郎さんが小規模な協奏曲ばかりを集めたリサイタル(というのかしら)を行い、そこでイサン・ユンのフルート協奏曲を演奏し、お祝いしますです。
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それにしても、これだけのビックネームの生誕記念年なのに、今年のソウルの春恒例オーケストラ・フェスティバルでもソウルフィルが1曲ちょろっとやっただけだし、韓国国立オペラが《シムチョン》を上演するわけでもない。うううん、なんだか不思議だなぁ、もっと猛烈に盛りあがってもいいだろーに、なんなんだろーか、と思わずにおられぬ感じでありました。

で、先程、フルートの吉岡さんとお話する機会があったて、興味深い事実を知りました。まあこれは原稿には使わないことだろうから「商売にならないことを書く」当電子壁新聞向けのネタと判断し、以下にサラッと記します。

要は、パク・クネ前大統領が、イサン・ユンを「北朝鮮に行ったことのある人物」という理由でブラックリストに挙げていたそうな。それがどういう意味で、社会的にどういうことが起きるのか知らぬが、ともかく「取り扱い要注意人物」になっていたとのことでありますよ。

へえええ、なーるほどね。納得して良いのか判らぬが、なんだか腑に落ちる話ではあります。

共謀罪のある社会ってのは、こんな感じになのでしょーかねぇ。あいつは共謀の疑いがあるらしいからヤバイ、となると、みんなでないふりをする、触れないことにする…のかな。

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舞踏要素極大の《サティアグラハ》 [現代音楽]

バーゼル歌劇場で《サティアグラハ》を見物して参りました。この先、ベルリンのコミーシュ・オパーなどでも上演されるプロダクションだそうなので、日本語文化圏の方も沢山ご覧になると思いますから、ま、少しは見物前の参考になるかな。ってか、ぶっちゃけ、「きっちり心構えして会場に来た方が良いよ」というお節介でありまする。

この舞台、バーゼル歌劇場の売りプロ(ドイツ語圏お馴染みの€3くらいでそれほどたいしたことが書いてあるわけではない配布物で、日本なら「これなら無料配布にしろ」と言う声も挙がりそうなもんですが、伝統なんでしょうねぇ、これも)に記されたキャスト表のガンジーやらミス・シュレーセンやらの歌手の下に、「Eastman」という,恐らくは団体名だろうなぁ、という表記があり、その下に「Kazutomi Kozuki」などという明らかに日本人と思われるいくつかの名を含めたいろんな人種っぽい12名の名前が並んでいる。どうやら、ベルギーのダンスカンパニーみたいでありまする。
http://www.east-man.be/

んで、その隣のページに指揮者ジョナサン・シュトックハマー以下、スタッフ名が並んでるのだけど、指揮者の次に書かれているのは演出&振り付けInszenienrung und Choreografieのシディ・ラルビ・チェルカウイ(と読むのかしら、Sidi Larbi Cherkaoui)。どうもEastmanなる舞踏カンパニーの監督さんのようでありまする。

もうこれで、だいたいどんなことになるかは想像がお付きでしょう。そー、この舞台、ぶちゃけ、「歌手や合唱団を伴う現代舞踏」ですわ。オペラ、という言葉を本来の意味の「作品」、要は「いろんなアート作品を全部ぶち込んだもの」という意味で捉えるなら、誠に以てオペラです。だけど、ヴァーグナーやヴェルディ的な意味での19世紀のロマンティックな「オペラ」とは、ちょっとどころか、相当に違ったものでんがな。ぶっちゃけ、歌手がベルカントで声を出すのがメインではなく、そういう要素もたっぷりあるけど、メインは今風のヒップホップやらストリートダンスから山海塾的なモダンダンスまでいろいろな要素を取り込んだダンスなのでありまする。

舞台の上には、最初から最後まで普通の意味での「装置」はありません。じゃあ、今時の証明やらレーザー光でいろんなことをするのかといえば、それもない。装置はないけど合唱団が全員鼠とか、そんなとんでもない着ぐるみが次から次へと出て来るわけでもない。人体とその動きが、背景になり、装置になり、あるときは板を保ってきて作業机や黒板にする際の黒子にもなり、はたまた群衆の動きにもなる。無論、「怒り」や「苦悩」を象徴する文字通りの舞踏にもなる。

と、いうところまで判った上で、このバーゼル歌劇場の公式ページにあるトレイラーをご覧あれ。
https://www.theater-basel.ch/Spielplan/Satyagraha/oeU4hpse/Pv4Ya/
このトレイラー、無論、音楽と映像は合ってないのだけど、基本、ずーっとこんな感じだと思って頂いて結構です。ともかく、歌手や合唱団がものすごく演技をする、というより、踊るのですわ。ガンジーが南アフリカの港に到着し、南アフリカのインド人差別を世界に伝えた奴ということで庶民からリンチにされる場面では、ガンジーさん、ホントに胴上げから放り投げに近いことやら、逆さにされるやら、酷いことをされながら歌わねばなりません。登録証明カードを一斉に燃やす場面や、最後のクライマックスのニューキャッスル大行進でも、ガンジーさんは舞台の上をかなり複雑な導線で動きまわらねばならない。しばらくの間、ガンジー役は歌手と舞踏家の2人1役なのかと思ってました。

逆に、これまでの《サティアグラハ》上演(ウィルソンの決定版の影響力が強過ぎて殆ど別の演出が出ていない《浜辺のアインシュタイン》とは異なり、この作品はいくつもの演出が出てます)であったけれどこの舞台ではないものは、各幕に記されたトルストイとかゴダールとかキング牧師などの象徴性です。それらしき人物が舞台に配されることもありません。

なんだか、言葉で説明するのがとっても無意味に感じる部分も多い舞台なので、もういいや。ともかく、最初から最後まで、どっぷりミニマルな音楽の変化に細かく反応しつつ人々が動き続ける、というモダンアートを3時間10分眺め続けるみたいなステージでありました。
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ただ、敢えて記せば、過去のどの《サティアグラハ》よりも歌手が弱いなぁ、という感は否めませんでしたです。最後のガンジーの「夕暮れの歌」すらも、舞踏の伴奏のように感じてしまった程なので。

ま、なんにせよ、「20世紀後半に書かれた最大にして最高の舞踏音楽」と割り切れば、これはこれでありなのだろうと思います。昨日はたまたまバーゼルアーツというこの都市としても非常に重要な現代美術展の真っ最中で、空港には関係者送り迎えのブースがあったり、街に様々な現代美術の展示があったりしていて、客席の小生の周囲にも明らかにそっち関係の人がいっぱいいました。そういう音楽系ではない、尖ったアート系の方々には、この音楽と演出、というか、舞踏は、ものすごくアピールしてました。なるほどねぇ、やっぱりグラスの作品って、オペラ愛好家や音楽愛好家よりも、現代芸術関係者の方が直接刺激されるものがあるだろーなー、とあらためて思ったです。

2週間の時間を経て眺めた《浜辺のアインシュタイン》と《サティアグラハ》が、まあものの見事に正反対の方向性の演出だったのは、これらグラス初期傑作群はホントの傑作であるという証明なのでありましょう。

この舞台、証明書を燃やす抗議運動のところまでをアンバランスなほど大きな前半にして、後半はニューキャッスル大行進と「夕暮れの歌」だけに分けてる。その幕間に風を浴びに劇場の外に出ると、週末の劇場前の空間にたむろしている若者達が、俺たちはお前らセレブが聴くようなつまらん音楽は聴かないぜ、ってか、これ見よがしにデカイ音で自分らの音楽を流し始める。
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ところがさぁ、彼らが流すインド系なのかなぁ、インド料理屋で流れてるような音楽が、今さっきまで劇場の中で鳴っていて、これからまだ1時間くらい流れる音楽と、そう遠いものではない。ってか、君たちがカッコイイと思って聴いてる音楽をもぅおっとカッコ良くしたものが今劇場で鳴ってるぜ、って教えてあげたいくらい。あの若者達を劇場の中に入れてあげれば、ぎぇええええすげええええ、かっこええええええ、オペラすげえええええ、と思うこと確実だろーに。

ま、そういうもんを「公立劇場」がしっかり出しているというのは、やっぱり、凄いことであります。はい。

以上、全く本気で感想を書く気が無い感想でありましたとさ。ひとつ言えるのは、わしゃもうこの演出は結構です、ってこと。舞踏好きの方は、是非どうぞ。ベルリンで出るときは眺める価値はありますよ。

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文楽人形のような子供達 [現代音楽]

ちょっと前に日生劇場で上演され、帝都でもそれなりに話題になったライマンの《メデア》の独都初演となっている舞台を見物してまいりました。場所は,今、ことによるとこの地でいちばん面白い劇場、コミーシュ・オパーです。

ええ、どうもこの街に来ると、昼間っからいろんな人達とアホみたいにデッカいジョッキをひっくり返してシュニッツェルやらアスパラやらを喰らってしまい(肉団子はパス)、べろべろへべれけになって劇場やホールに至り…という悪いパターンが定着していて、昨日もしっかりその悪習を繰り返してしまい、リンデン通り挟んだ反対側の「カフェ・アインシュタイン」なる今回のドイツ滞在を象徴するような名のみんな知ってるカフェを出て劇場平土間真ん中に座ったときは、もー前頭葉は活動停止状態。ましてや目の前にデカイおっさんが座れば舞台真ん中はみえないような構造なんで、メデアが一生懸命なんか掘り返していたり、埋めていたりするのがよく見えず、結果として前半はほぼ轟沈。なんで、流石にこの無責任電子壁新聞の「感想になってない感想」としても、とてもじゃないがまともなことは言えない。とはいえ、本日からまた弦楽四重奏の世界に頭が戻れば、多少なりとも思ったことをすっかり忘れてしまうこと必至。で、おぼろげな記憶から、メモのように記しておきます。自分の為のメモですので、悪しからず。←いつもじゃないか、と突っ込まないよーに

日本でも目敏い追っかけマニアさんらが注目しているベネディクト・アンドリュースが演出を手掛けるこの舞台、基本は、全く以てまとも。変なことはなーんにもしてません。その意味で、今、東京は初台で出ているフリードリッヒ最晩年の《リング》なんかが出て来た,遙か遡ればスタニフラフスキー・システムなんぞという懐かしいところから、ブレヒト経由してしっかりこの街に根付いている「リアリズム演劇を前提としたオペラ演出」のモダン版。妙なテクノロジーも全く用いない、ホントにストレートプレイに近いものです。

なんせ日生劇場と比べてもまだ小さい(とも思えないのだけど…)劇場で、ピットも小さく、この劇場でこの類いのもんをやるときの恒例の打楽器ピットからあふれ出し、という状況。で、あのライマンのこれでもかという音楽をドッカンドッカン無慈悲に鳴らし、歌手が無慈悲に叫びまくる、というもの。前半最後のメデアのモノローグは、まあ、それは演技歌音楽総ざらえでそれはもー「ロマン派の究極形態としての表現主義」を目にするようなもので…こういうもんがあらためて21世紀に出て来るんだわねぇ。

そんなこんなの濃厚にしてどぎつい、日生の舞台は音楽含めまるっきりお茶漬け風味の薄味にしか思えぬ舞台の中で、最も印象的だったのが、子供達の扱いでした。この演出、子供らは最初から舞台の奥に座っている。
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よーく見ると、人形なんですわ。かなり大きな、文楽人形に今の子供のシャツなど着せたようなもの。その人形を、メデアやらクレウサやらが扱うんだけど、これがまぁ、とっても上手、というか、訓練された扱いで、まるで「静かな、大人しい、無表情なよい子達」に見える。周囲の登場人物やオーケストラが大騒ぎをすればするほど、子供達の静かな礼儀正しさ、こんな場所でも一生懸命順応して生きていこうと子供なりに頑張ってるんだろー、って感じがガンガンに伝わってくる。ホント、完全に文楽の世界です。

で、そんな子供らを、舞台の真ん中で、メデアは頸をかききって殺します。オケが子供の悲鳴のような、弱音の叫びを挙げる。ホントに、人形が死んでいく…

いやぁ、刺激が強すぎてR指定にしないと、トラウマになるんじゃないか、というような、フォルテシモを鳴らし続けた中で、いきなり再弱音だけで表現されるものの強烈さ。その直後、クレウサはホントに火に包まれて死ぬのだけど、絵ずらとしては遙かに刺激的なそっちよりも、遙かにインパクトがある子供殺害シーン。

数あるメデア舞台のなかでライマン作品が特徴的な、最後のクレオンとメデア再開の静寂感は、もうその前に充分に先取りされている、って感じでした。

てなわけで、ともかく,メモ。そろそろ空港に移動せねばならないので、これまで。

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