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ジョン・アダムス弦楽四重奏曲第2番日本初演決定 [現代音楽]

カテゴリー横断ネタですなぁ。

来る4月24日、今や関東地方の「弦楽四重奏のメッカ」としての名声を不動のものにしつつある鶴見サルビアホールで、ジョン・アダムスの弦楽四重奏曲第2番が日本初演されます。先程、主催者の方から確定という情報を得ましたので、記しますです。

演奏するのは、そー、言わずと知れた我らがアタッカQでありまする。っても、この曲もどうやら当面のところ演奏許可を有しているのはセント・ローレンスQとアタッカQだけみたいなんで、セント・ローレンスQがまるっきり来日などありそうもない現状に於いては、今回聴かないと次にいつ聴けるか判らぬ状況でありましょうぞっ。

曲に関しては、いまどきのメイジャー作曲家ですから、ちゃんと自前のwebサイトでガッツリ解説まで用意してありますし、さわりながら音もありますので、こちらからどうぞ。
https://www.earbox.com/second-quartet/
それにしても、この写真、そう言われなかったら絶対にセント・ローレンスQとは思えないわなぁ。ファーストは不良オヤジっぽさがますます増してるけど(昨年の夏にバンフでご一緒してましたけど、ライブの方がもっとうんと不良オヤジっぽいです!)。

なお、アタッカQの4月下旬の公演、メイン、というわけではないけど、数があるのは開催危ぶまれた311の年に彼らが優勝した大阪国際室内楽コンクールの第9回大会を前にした関西地区でのアウトリーチなど地域活動なので、恐らく、ジョン・アダムス作品がきちんと聴けるのは鶴見だけであろうとのこと。もしかしたら関西ではアウトリーチで一部楽章などやるかもしれないけど、ギリギリまで判らないわなぁ。

てなわけで、とにもかくにも、ご関心の向きは鶴見に入って下さい。よろしく。

[追記]

N響の来シーズンのプログラムが発表され、なんと、《Absolute Jest》が日本初演されます。
http://www.nhkso.or.jp/contents/wp-content/uploads/2017/01/2017-18season_program.pdf
2018年1月末、残念ながらNHKホールです。サントリーだったら1回券が買えないから、良かったという考えもあろうが、それにしてもちょっとねぇ。指揮がウンジャンで、セント・ローレンスQを連れてくるわけですな。うううん、アタッカQはいろいろ売り込んでたんだけど、やっぱり指揮者がソリスト連れてきちゃうのが一番強いわなぁ。残念だなぁ。

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世界で最も客が入る20世紀後半の管弦楽曲は… [現代音楽]

天皇誕生日の善き日、観光客とクリスマス飾り溢れかえる京都まで日帰りし、京都市交響楽団創立60周年記念演奏会を拝聴してまいりましたです。一応、短いとはいえ商売もん原稿もあるので、そっちには書けないやくたいないことを記すであります。

目出度いオーケストラの還暦演奏会、それも日本ではほぼ唯一の完全官立オーケストラとして始まり、余り話題にはならないけどストやったり、いろんな存続の危機があったりした団体。この数年は広上氏を首席指揮者に迎え、今や日本でいちばん元気があって集客力のあるオーケストラになった瞬間のお祝いですから、これはもうさぞや派手な、それこそマーラーの8番とか合唱付き新作委嘱初演とかで祝うのであろー…と思うのがわしら凡人の考えること。無論、誰もが期待するマーラーの8番は3月にしっかりやってくださるのだけど、敢えて「60周年記念演奏会」と高らかに題名を掲げてやるのが、なんとまぁ、シュトックハウゼンの《グルッペン》だというのだから、なんてこった。流石、と素直に驚嘆すべきか、誰がどうやって騙したんだ、と別の意味で驚嘆すべきか。
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結論から言えば、言い出しっぺは3人の指揮者陣を担う客演指揮者のマエストロ下野だそうで、それにいかにもやりたそうなもうひとりの客演指揮者のマエストロ髙関が大喜びで乗って、首席指揮者のマエストロは「ぐるっぺん、ってなんじゃ」だったそうです(会場で司会者さんがいて、マエストロそれぞれにちょっと話を聞いたときに仰ってたこと)。ま、その辺りは某月刊誌の本篇原稿を眺めていただくとして(余りにも短いので触れられない可能性高し、だけどさ)、ホントにどーでも良い感想を。

まずなによりも、おおっぴらにいうべきこととしては、これまた驚くべき事にこの演奏会が目出度くも実質満員御礼になった、という事実であります。改装なったロームシアター京都の向かいのみやこメッセという、天井は普通のコンヴェンションセンター展示室のように低いけど、長方形のひろおおい空間が会場ですので、客席数なんであってなきが如きもの。何人の客が入ったか知らないが(しまった、訊ねてこなかった!)、恐らくは1000人以上、普通のコンサートホールひとつくらいはしっかり入っていたことでありましょう。それに、曲の造りからいって前の方の3つのオーケストラに囲まれるところがいちばん良い席なわけで、そこめがけてパイプ椅子をLCCか中国のぱっちもん新幹線かってくらい思いっきりぎゅう詰めにしていた。なんであれ、その客席がほぼいっぱいになっている。全席自由なんで、会場前から聴衆がこんな風に並んでました。
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ちなみに、会場のタッパはこのロビーと同じですから、いかに天井の低いところでやったかがお判りでしょ。内部の写真は、ゴメン、出せないのですわ。

なお、《グルッペン》は間にケージの《五群オーケストラのための33の小品》挟んで2度演奏されたんだけど、NHK京都のアナウンサーさんという司会者のおねーさんがケージの後に強制的に客を一度排除し、別の席に座り直しなさい、ということをなさいました。数年前にサントリーでやったときもそうだったけど、この曲は席を変えて複数回聴くというのが、どうも日本での定番になりつつあるようですな。で、やくぺん先生はオケを全部等距離にするくらいの真ん中よりちょっと後ろくらいのど真ん中でGPを見物させていただき、1度目の本番は出来るだけ真ん中の第2オケに近い前寄りの真ん中辺り(とはいえ、大行列でど真ん中は取れませんでした)、2度目はいちばん後ろの真ん中で聴かせていただきましたです。

ええ、演奏そのものは、オーケストラの配置、会場の在り方など、過去にやくぺん先生が経験した多くはない回数のこの作品の実演の中では、最も理想に近い再現だったと思うです。マエストロ下野曰く、マデルナやらロスバウとやらブーレーズが初演した60年前の会場よりもちょっと広いそうですが、ともかくこの作品、響きすぎるいまどきのちゃんとしたコンサートホールでは無理、ということはよーく判りましたです。

でも、当然、そうなると「三群オーケストラ」というメインテーマとはまた別の、極めて常識的な意味でのバランスがやたらと難しくなる。アンプリファイされたギターなどの音量はどうあるべきか、そもそも指揮者3人が聴衆の方を向いているという「30人編成くらいの打楽器がいっぱい入ったアンバランスなオーケストラをサントリーのPブロックみたいなところで聴いている」というおかしな状況で打楽器がカバーしてしまうに決まってる弦楽器をどう聴かせるのか、もう訳が判らぬカオス状態。マエストロ下野は個人的な立ち話で「この曲にも正しいバランスはあります」と断言なさってましたので、恐らくはマエストロがGPで音チェックをしていた場所の辺りで聴けば、その理想に近い響きになっていたのでしょう。正直、2度目の、いちばん後ろの席で聴いたときは、弦楽器のソロなど、殆ど聴こえませんでした。難しいなぁ。まあ、そういう「よくきこえないよ」というのも含めた曲なんだろうけど。

…なーんて一応は表のお話っぽいことは、まあこんなもの。ケージとシュトックハウゼンの「創作」の考え方がこんなに違うのかねぇ、とか、いろいろネタはあるけど、ま、それはそれ。で、当電子壁新聞で論じたいのは、どーでもいいけど、実はいちばんどーでもよくはない話。「なんでこの曲は客が入るのか?」ということ。

《グルッペン》という作品、これだけの規模の音楽ですから、アマオケや学生オケが出版社のUEさんに言わずにこそこそやってしまうのは流石に不可能でありましょう。演奏歴はきっちり把握されている筈で、最近のものを知りたければ、ここにいけば簡単に判る。
http://www.karlheinzstockhausen.org/Auffuhrungen_Performances_english.htm
シュトックハウゼン教の聖地たる、御大の公式ホームページの作品上演リストであります。ちなみに《グルッペン》のページはこちらで、ここで基本的なことは全部判るようになってます。
http://www.karlheinzstockhausen.org/gruppen_german.htm

で、上の上演リストを眺めればお判りのように、2016年には《グルッペン》はパリ、モスクワ、プラハ、京都と4回演奏されている。どこかのオーケストラなり主催者なりがこの曲を持って世界ツアーをやってるわけじゃあなく、それぞれが全く別のプロジェクトとして関係なくやられている。これって、60年前の前衛最盛期に書かれた110人の演奏者を必要とする純粋器楽曲としては、「もの凄く頻繁に上演されている」と言っても良いんじゃあないかしら。そりゃ、《トゥランガリラ交響曲》には及ばないかもしれないけど、これだけ特殊な編成でセッティングだけでも頭が痛くなりそうな曲が世界で3ヶ月に1度はやられてるというのは、とてつもないことでしょーに。

なによりスゴいのは、モスクワとプラハがどうだったかは判らないのだけど、やくぺん先生が直接知る限り、経験したどの演奏会も満員なんですわ。それどころか、1月のパリ・フィルハーモニーでの演奏は、もう数ヶ月前から完売札止めで、ホールのスタッフやパリ音楽院の方に手を回しても切符が1枚も出てこない状況。結局、プレスチケットも出ず、聴くのは諦めねばならなかった。その前に聴いたマンハッタンのNYPの特別演奏会も満員札止め。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2012-06-30
その前に、サントリーの夏の現代音楽祭でやったときも、まさかと思ったけど売り切れ満員御礼当日券ありません、でしたし。

うううん、これは一体、どういうことなんでしょうかねぇ。

興味深いのは、サントリーははっきりと「現代音楽フェスティバル」だし、パリもシュトックハウゼン・ウィークみたいな中での開催だったけれど、マンハッタンも今回の京都も、「ゲンダイオンガク」を全面に出した演奏会ではなかったこと。そして、当然ながらなのか、幸いにもなのか、聴衆も「ゲンダイオンガク」専門客ではなかった、という事実なのであります。とりわけ今回の京都は、聴衆の殆どが「昔から京響を聴きに来ているご隠居サラリーマンご夫妻」みたいな方だった。シュトックハウゼンだから、《グルッペン》だから、という客は、遙々東京くんだりからやってきた業界関係者や現代音楽関係者数十人と、関西のそういう固定客せいぜいが百数十人くらいでありましょう。要は、この演奏を聴いた人の7割くらいは、普段は「シュトックハウゼン」やら「ゲンダイオンガク」やらとは無縁に幸せに生きていらっしゃるまともな方々であったのでありまする。

こういう人達に「なんだかしらんけど、スゴい」と思わせられたのか?一部ドイツ語圏の方々はベートーヴェン並に偉いと信じていらっしゃるシュトックハウゼン御大がホントにエラいのか、勝負の日でもあったのですわ。

で、シュトックハウゼン御大は、これららの京の街場の人々をひれ伏させることが出来たのか…うううん、ぶっちゃけ、判りません。ただ、もの凄く長い拍手が続いていたことは事実であります。

「《グルッペン》は何故客が入るのか?」どなたか、本気で論じていただけませんかね。余りにいろんな要素がありそうで、アホなやくぺん先生には到底手に余りますです。

さても、次はいつ聴けるのかなぁ。

[追記]
28日朝の追記です。ええ、京都市交響楽団60周年記念イベントの最後の目玉、3月末のマーラーの8番は、昨日チケット発売と同時に2公演即完売になったそうです。今回の《グルッペン》も、そういう京響を愛する地元聴衆のパワーがあってこその実質満席、なのかもしれませんねぇ。愛されてるなぁ、京響。やっぱりオケは一都市にひとつに限る!←京フィルの方に叱られそうな発言じゃ…

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作曲家薮田翔一の夕べ [現代音楽]

地獄の「出張おとうさんの空の深夜バス」午前1時前羽田発ANAフランクフルト行きのパツパツなエコノミークラスで寝たり寝なかったりしながらシベリアを横断、午前5時過ぎにマイン川沿いのヨーロッパのいつものターミナル駅に到着。まだ真っ暗な中を慌てて乗り換えて、亜細亜・北米・豪州各地から朝っぱらに到着した働くオジサンらをこれまたパツパツに詰め込んだちっちゃなカナディアン・リジョナル・ジェットで小雨のジュネーヴ空港に到着したのが午前8時過ぎ。なんだか、「さああ働けぇ!」って時間だなぁ。

少し寝たとはいえ音楽を聴くには最悪の時差でぼけなす海胆頭を抱えて、とにもかくにもこれからジュネーヴ音楽院ホールに向かいます。本日から開幕する第71回ジュネーヴ国際コンクールのオープニング演奏会で、かつてこの大会の弦楽四重奏部門で3位入賞したガラテアQも登場、披露なさるのは、クルタークとライマン、それに薮田翔一…って、現代音楽演奏会じゃあないの、これじゃ。ま、ライマンは知る人ぞ知るシューマン歌曲作品103の弦楽四重奏と歌編曲だから、お許し下さいな。

この大会については、参加者がきっちり発表になる明日以降に記しますが、今話題にするのは、作曲家の薮田翔一氏の作品でありまする。今日これから演奏されるのは、歌曲が2つと、それに弦楽四重奏のための《Billow》。後者は、作曲部門もあるこの大会(だから、その辺含め、明日以降に説明するですうう)で昨年優勝した譜面だそうな。こちら。
http://shoichi-yabuta.jp/event/geneva/
んで、この曲がそのまま今年の弦楽四重奏部門の課題曲にもなるという、なかなか賢い連携のさせ方をしてるわけですな。つまり、オープニングコンサートで昨年の優勝曲をやり、それが今年のお手本演奏になる、ということ。聴衆とすれば、来週の水曜日と木曜日にゴッソリ聴く前に、一度、初演団体で勉強しておくことが出来るわけで、有り難い限り。弾く連中は今日の客席にいるのかな?

さても、そろそろ会場に出かけねば。どんなもんだったか、また戻って来たら。ことによると「ノーコメント」かもね。作曲家さんは来ていないようなので、当人をつかまえて、というわけにはいかぬです。ま、いまどきはガッツリ公式のホームページがあり、曲についてはなんのかんの本人が仰ってるので、それでいいんだけどさ。
http://shoichi-yabuta.jp/

それにしても、作曲にもしっかり「コンクール」があって、30代始めくらいまでの若い人達が一生懸命作品を提出するんだよねぇ。そういう中から生き残っていく曲があるのか、そういえば西村朗の最初の弦楽四重奏って、なんかのコンクールで賞を獲っていたような。

※※※

てなわけで、見物して戻ってまいりました。作曲者御本人、いらしてました。左端のイケメンくん。
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《Billow》なる曲は、前作に引き続き、という感じの短いフレーズというか断片が受け渡され西村ケチャっぽく盛り上がる前半と、グリッサンドとフラジオを使った息の長い旋律を歌い合う静かな後半が対比される曲。この作家さんの最大の美点と思える「がっつりゲンダイオンガクっぽい響きの音楽やってるんだけど、始めて聴いても今が全体の中でどういう部分なのかちゃんと判る」という、聴衆置いてきぼりにしない判りやすさというか、サービス精神に溢れていて、なかなか好感が持てましたです。

作曲者さんに拠れば、スコアはもうすぐ全音から出版されるそうで、パート譜はレンタルだそうです。つまり、ちゃんとやれる曲、ってこと。

なお、前回の声楽部門で優勝したソプラノさんが歌った《風神・雷神》なる曲ともう1曲は、なんとなんとヴォカリーズで、これまた使えそうな曲でした。ピアノがそれこそ風神の巻き起こす大風と、雷神の雷を描写するような鍵盤の隅から隅までガンガン鳴らす伴奏付けて、そっちも大受けでんがな。

御本人にも立ち話で言ったのだけど、いまどき旋律をしっかり書こうとするとか(お姉さんが歌手さんだそうです)、作曲家にしか判らぬ作曲技法にマニアックに突っ込んだもんとは違う、聴衆を意識しつつも言いたいことを言えるバランスの良さは、映画音楽とか舞台音楽で出て来る方なんじゃないかなぁ。20年後に大河ドラマのテーマ音楽やってるかもよ。若い貧乏な映画作家さんで、作曲家探してる人には、覚えておいても良い名前だと思うです。

いやぁ、ちゃんと才能というのは出て来るもんだ。作曲家コンクールって、これまで余りに業界過ぎて近寄りたくなかったのだけど、こうやって才能を次のコンクールで使うなんてやり方があるのなら、面白いかもねぇ。勉強になります、何事も。

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みなみおせんせーの大予言 [現代音楽]

本日、溜池の大きな方のホールで、柴田南雄作品大特集という「サントリー財団主催作曲家の個展」とか以外ではあり得なさそうな演奏会を聴いて参ったであります。主催は「柴田南雄生誕百年・没後20年記念演奏会実行委員会」なる団体で、まあ普通に考えればどう考えても売れそうもない、こういう演奏会は金払わないと犯罪に近いぞ、という感じのもんでありまする。まかり間違って招待なんてされちゃったら、切符の額面以上のドーネーションしないと人間としての在り方を疑われても仕方あるまい、という演奏会でんなぁ。

なんでこんな演奏会が成り立ったのか、いろいろあるんだろうけど、ともかく成り立ってしまった。それどころか、いろんな事情で溢れそうなことになってしまったんだから、まあ生きているといろんなことに遭遇出来るものであると、生きている喜びをしみじみと感じる秋の日であったとさ。

ってと、いかな与太話でもオシマイになってしまうのだけど、まさかそーゆーわけにもいかんです。で、演奏会の感想、ってよりも、演奏会の在り方の感想でありまする。ま、商売作文には絶対にならないし(いかにも書くのがお仕事という方々が2階正面にずらっといらっしゃいましたから)、世間の役に立つようなことを綴ってるわけでもないし。

さても、「どういう聴衆が客席にいるとこーなるのであろーか?」と感じざるを得ない空気漂う会場の2階隅っこのいちばん後ろくらいに陣取ったやくぺん先生の周囲は、明らかにどこかの地方都市からこの演奏会のために集団でやっていらしたアマオケかアマチュア合唱団の若い元気なご隠居さんくらいのおばさまやオジサンでありました。こういう演奏会に対する妙に練れた感じ。やがてなんとなく判ってきたのは、「若き日に柴田南雄先生と歳を取ってきて、今に至った人達」が中心みたい、ってこと。とはいえ、4万円も5万円もするブランド・オーケストラや著名オペラ団体の来日公演を埋める「21世紀10年代のトウキョウに於ける勝ち組プチセレブの熟年」というのとはまるで違う。もっと野党支持層みたい、ってか、一頃の闘う日フィル支持しちゃうような組合系、ってか、そういう元気さ溢れる方々。今も地方で生き残っているところがある労音の事務局みたいな…ってもの、違うなぁ。

そもかくそんなところに、なにやら凄く質の良い若い方々もちょぼちょぼと混じってる。

うううん、70年代頃までの草月ホールというのとも違うし、渋谷ジャンジャンやアール・ヴィヴァンの空気とも違うし。

なんにせよ、好き嫌いというよりも、なんだか凄く安心できる空気が会場に流れておるのでありますよ。どうしても商売柄か、自分が気持ちいいと感じたり安心できたりする場合には逆に気をつけねばならぬぞ、と思ってしまうのだけど…まあ、いいや、それもどーでも。

そういう空気の中で演奏された作品群を聴いていて、ともかくなによりもまず頭に浮かんだのは、日本最後のデカンショ系インテリ作曲家(ってか、最初がいたのか、という気がしないでもないが)柴田みなみお先生の世に広く知られた名言であります。曰く、「技術的にある水準以上のきちんとした作品を遺してさえおけば、その作曲家が復活してくる可能性は常にある。」

…と記しつつ、この発言、南雄氏がいつどこでなさってたのか、まるできちんとしたことが思い出せない。当日プログラムにも記された著書の中ではないと思う。1970年代半ばから後半くらいの「レコード芸術」誌上で鼎談をやってて、林光氏なんぞと喋っていて、その中で、あのラサールQのツェムリンスキー第2番かなんかについて喋ってるときになさった発言のように記憶しているのだけど…。そこまで判ってるなら調べろといわれても、「書いてあることはみんな嘘、信じるな」をモットーとする私設電子壁新聞なんぞのためにそこまでやる気力もない。

で、いーかげんなままに記すわけですが、ともかく、上述の太字部分のような趣旨のことを仰ってたわけでありますよ。

んで、要はさっきまで、「ああ、みなみお先生、まさか自分の作品がこういう形で演奏されると思って書いていたのかなぁ」と思いながら聴いていた、ってこと。それだけといえば、それだけの感想です。

正直に言えば、音楽としては、「時間や歴史を越える」と盛んに指揮者さんやら関係者の皆さんが仰るけど、どっちかというと、「あああああ、みなみお先生の音楽も、もの凄く彼が生きた時代の制約の中にあったのだ」と、当たり前と言えば当たり前のことをつくづく感じたのであります。

なんせね、いまどき、指揮者がオケに向かって掌広げて指突き上げて指示を出すとか、目の前に並べられた札をおもむろに拾い上げて会場全体に広がる演奏者に大きく示す、なんての、とんとお目にかからないでしょ。「不確定性の音楽」にせよ「シアターピース」にせよ、こんなに「そういうものがあったよね」と思わされるものだなんて、想像だにしませんでした。いやぁ、ホントに、あの時代、前衛の最盛期からその終わりの試行錯誤、こんなのってあったよねぇ、一昔前は、って懐かしさ。周囲の人々と一緒に、我が青春が蘇る、あの時代が今も続いているような…

これって、「柴田南雄が21世紀に蘇った」のだろーか?

皮肉っぽい言い方をちょっとすれば、みなみお先生なりにありったけの手持ちのネタをぶち込み、結果として「シアターピース」まで包み込んでマーラーみたいな超大作となってしまった交響曲《ゆく河の流れは絶えずして》第2楽章の擬似バロックの部分がとても面白かったです。ここで御本人が「前古典派」と仰ってる音楽、どう聴いても「イ・ムジチの《四季》やら、ネビル・マリナー指揮アカデミー室内管の演奏するバロック音楽」っぽい響きなんですね。いまどきのあたしらが耳にする、所謂「古楽」とか「歴史的な情報に拠る再現」とかですっかり馴染んでしまった響きとはまるで違う。そー、正に南雄先生が文筆家・評論家・解説者として大活躍だった時代のLPレコードから聞こえてきていた「前古典派」の音がする。バッハ=マーラーの《アリア》とは言わないけどさ、突き詰めればそーゆー音楽。

ああああああ、歴史主義という究極のロマン主義者として知識と前頭葉の作業で時代を超えようとしても、結局は、音楽は耳で聴いているのだなぁ、時代の制約からは逃れられないのだなぁ…

マリー・シェーファー的というかカーゲル的というか、どこか貧乏で武士は食わねど高楊枝風な「前衛」の残滓を引っ張った「シアターピース」は、日本国文化に深く深く根付いた西洋音楽の形たるアマチュア合唱団なんぞの世界では濃かったり薄かったりしながらもしっかり生き残っているようだけど、コンサートホールの空間を埋め尽くすやり方としてはモダンなテクノロジーを駆使した「メディアミックス」系が主流となって、「シアターピース」は概念そのものが忘れられつつある。というか、なにかもっと別のものの一部となって取り込まれてしまっている、という方が正しいのかしら。だから、30代くらいまでの質の良い感性をもった方々には、逆に凄く新鮮だったりするのかもなぁ。

ま、ただでさえ間抜けな頭が、ちっともまとまらないのは、ちょっと目には猛烈に口が立って頭が良さそうだけど、ホントはおもちゃ箱ひっくり返したみたいにええええいって並べちゃっただけなもんを、さてもどう聴こえるかしらとニヤニヤしてるような南雄先生の「創作」っぽいと思いつつ、もうこれでオシマイ。なんの結論もないし、なんの問題提起があるわけでもない駄文はこれまで。言い足りないこと山積みだけど、ま、それもそれでいいや。

本日の演奏を聴き、「おおし、あたしもこういうシアターピースを書くぞ」なんて思ったりしちゃった南雄先生をライブで知らない世代は、明日の朝に冷静になって我に返り、「でもつまり、昨晩のシアターピースって、つまるところは…」と思うことだろー。「…」のところに何が入るかは、その方の才能次第なんだろーけどさ。

なにはともあれ、実行委員の皆様、お疲れ様でした。

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タン・ドゥン《武道三部作》は中国版リングだった…のかぃ? [現代音楽]

なんのかんので、ソウルのロッテ・コンサートホールで、タン・ドゥンの「マーシャルアーツ三部作」を二晩続けて聴く、ってか、見物することになったでありました。
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ご存知の方はよーくご存知、この作品、映画という機会音楽作曲家としてのタン・ドゥン氏の現時点での集大成とも言うべき、なんと申して良いか説明が簡単そうで案外難しい「21世紀型コンサートホール用総合視覚聴覚芸術」でありまする。めんどーなんで、2011年にサントリーホールで日本初演されたときのリリースから、説明部分をまんまコピペすれば…

「2010年、上海万博にて、自身が音楽を担当した3つのマーシャルアーツ映画「グリーン・デスティニー(監督:アン・リー)」「HERO(監督:チャン・イーモウ)」「女帝(監督:フォン・シャオガン)」を、それぞれ、チェロ、ヴァイオリン、ピアノと合唱のための協奏曲として初演し、映像と音楽を結びつけ、武侠精神の美しい世界観を表現して話題となりました。」(サントリーホール・リリースより)

でありまする。現象とすれば、「コンチェルトの形で書かれた映画音楽を、それぞれ30分くらいのフィルムの断片及び演奏中の指揮者タン・ドゥン及びソリストのライブ映像をミックスしたものをステージ後ろの巨大スクリーンに投影しつつ、オケと独奏者がライヴで演奏する」もの。まあ、最近流行の「生オケライヴ付きの映画上映」とかに限りなく近いものだけど、あくまでも音楽は映画の「伴奏」ではなく、全体を総合しての作品。実演に接した感じでは、「背景にもの凄く手の込んだ映像が投影される演奏会形式オペラ」みたいなもんかなぁ。日本でも上演されたパリ・オペラ座が持ってる《トリスタン》なんかにも近いかもしれないですな。最近では、数年前に文化村で上演された「初音ミク・オペラ」なんかにも似たテイスト、かな。

コンサート会場で上映する「オペラ」という意味では、21世紀の現在、現代音楽マニアさんやらクラシック音楽愛好家さんを越えた層を対象に考えると、現実的な意味で最もモダンな「総合芸術」かもしれませんねぇ。

…なーんてえらそーな結論はともかく、上海万博での初演以来、比喩じゃなくアフリカ大陸以外の世界中で上演を繰り返している、ことによるとタン・ドゥンの総合舞台芸術系作品としては最大のヒット作でありましょう。まあ、尖った演出が不可欠なぶっ飛び内容の《マルコ・ポーロ》はともかく、北京オリンピックでの上演を狙ったけど結局メトでしかやれてない《始皇帝》みたいな(有り体に言って)失敗作と比べると、タン・ドゥン先生、いろいろ現実的に学んでるなぁ、と思うです。

ええ、以下はめんどーなので、2011年サントリー(若しくは世界中のどっか)での上演をご覧になってる方を前提の駄文でありまする。悪しからず。作品に関しては、作曲者の公式ページにきっちり解説がありますので、ご関心の向きはそっちをご覧あれ。昨日・本日のソウルでの舞台の感じも、これと同じです。ただし、第3曲の合唱はテープで済ませるヴァージョンで、独奏者も若い中国系の連中に世代代わりしてましたが。
http://tandun.com/composition/martial-arts-trilogy/
ちなみに、もの凄く充実したタン・ドゥンのホームページには、作品という選択肢の中に「マルチメディア&オーケストラ」という項目がきっちり立っていて、この作品もそこに分類されてます。うううん、21世紀だなぁ。

ええ、純粋に音楽作品としてみれば、やっぱりいちばん興味深いのは、どういう機会でか知らないが(なんせ5千₩も払って購入した売りプロが曲名以外は全部ハングルで、まーったく判らない)3部作上演の後に付け加えられた「三つの復活」なるエピローグのトリプル・コンチェルトでありましたね。いろんな意味で腰を抜かしそうになりましたですよ。はい。

まずは、マジ顔の大植えーちゃんみたいなジェット・リーやら、ジャッキー・チェンに酷い目に遇わされていた頃から思えばすげえ大物になったものだと感嘆せざるを得ないマギー・チェンが、地球重力の法則を一切無視して飛びまくって始皇帝暗殺を試みるかのチャン・イーモーのスタイリッシュさで固めまくった「英雄」なる映画のサントラから、案外と最近の2010年に造られたヴァイオリン協奏曲が30分ちょっと。ええ、なんでこんなに映画のことを言うかってば、ともかくIMAXシアター級のおぉっきなスクリーンがドカンと据えられて(当然、後ろと舞台上手下手を横から眺める席は全部潰してます)、そこにあらまぁ立派というくらいちゃんとした映画の抜粋が投影されるので、もうこれは「ロッテ・ワールドタワーの隣のワールドモールの上にあるIMAXシアター」みたいなもんでありまする。決して多くはなかった聴衆のほぼ全員が、映画観に来た満足感を抱き帰ったでしょうねぇ。

もとい、この曲、要は「ヴァイオリンがグリッサンドばりばりの旋律をしっかり保持しますから、金管楽器や打楽器が西洋の和声とはまるで異質の和音、ってか、音の響きの縦の固まりをガンガンぶつけるのでヨロシク」って曲であります。少なくとも和声(って言わんわなぁ、こういうの)はえらくアヴァン・ギャルドなんだけど、ヴァイオリンの独奏がガッツリと重音出せるようにした胡弓みたいな独奏パートをガンガン奏でるお陰で、なんかみんななんとも思わず聴いちゃう、というある種の詐欺みたいな曲じゃわい。←褒め言葉ですぅ!

んで、2曲目はいちばん古く、タン・ドゥン先生がまだまだいろいろオケにも試行錯誤していた前世紀最後の年の作品で、チョー・ユンファが弁髪してる「グリーン・ディスティニー」の音楽。弦楽アンサンブルと毎度ながらの打楽器、それに笛(フルート、というより、笛という感じ)がひとりだけ。それに独奏チェロで、音楽は弦楽器のグリッサンドやら特殊奏法は多用するものの、まだまだ普通の「協奏曲」の枠に入る音楽。ソロと楽器内独奏の絡みが関心の中心。もう打楽器が途中で前に出て来てチェロと絡んだりしても、誰も驚かんぞ。

初日にはなかったのですが、2日目にはこの後に作曲者が英語で作品について喋る3分ほどの映像が流されました。で、30分の休憩で東アジアで一番高い建築物のライトアップをイヤになるほど堪能した後は、最初の曲同様に3部作になるときに書かれたチャン・ツィイー様がタイトルロールの「エンペラー」(この邦題、なんで男性名なんねん?)のピアノ協奏曲。これはもう、すっかり自分の様式を手に入れたタン・ドゥン氏が、ジブリ映画のヒサイシ様真っ青の旋律を奏でるドロマン派協奏曲スタイルの音楽に、そんなんなんぼのもんじゃいという調子で西洋楽器ガッツリ自分らの音楽に呑み込んじゃった中国っぽい音楽ガンガンにぶつけてくる、という、考えようによっては半世紀前に武満が《ノヴェンバー・ステップス》で恐る恐るやったことを何の衒いも恥じらいもなくやっちゃうような、正にこれこそ究極にして最高級のB級ぱっちもん音楽じゃわい。いやぁ、中国って、やっぱり自分が世界の中心だと絶対に思ってるな、って感じざるを得ません。←繰り返します、褒め言葉ですっ!

さて、サントリーでの上演はこれで終わりだったわけだが、2013年にもう1曲、エピローグのように10分ちょっとの短い三重協奏曲が付いて、これがまああああああ、腰を抜かしそうにあっとビックリ、爆笑ものでありました。

だってさぁ、おもむろにピアノが独奏で弾き始めるのが…ええええ、まさかまさかの《ラインの黄金》冒頭の世界創世の音型なんだわさ。この作品はオリジナル映画がないので、映像は青い背景に水がブクブクしてるようなもので、そこにソリストが写り込むイメージ映像です。で、なんだぁ、と思ってると、コントラバスが《春の祭典》のファゴットの序奏のあと、「春の兆し」だか「乙女らの踊り」だか、あのリズムが面倒な曲でいちばん明快単純にパワフルなリズムが刻まれる最初の部分の引用としか思えぬ音型を延々と繰り返し始め、それがヴァーグナーの宇宙創成に重なる。ああああ、とうとう5本並んだホルンが所謂「自然生成のモチーフ」をモロに引用し堂々と吹き鳴らす。それどころか、隣に並んだトランペットがラインの乙女達の「♪わーらわーら…」ってのを歌い出す!

かくて、《ラインの黄金》と《春の祭典》がフルオーケストラで一緒に鳴ってるカオスが突然ストップし、無音の中を、タン・ドゥン先生お得意のウォーター・パーカッションというか、ぶっちゃけ水槽に水が滴る音だけがスピーカーで会場中にもの凄く大きな最弱音(としか言いようがない)で響き渡り…後はもう、祭りです。タン・ドゥン氏が指揮台下りて、ソリストが横で弾いてるのにピアノの最低音部分をたたき出したり、オケの中を歩きまわったり。最後はもうこうなったらお決まりの、指揮者の「はああああっ!」という一声に全楽器がドッカーンと一発かましてオシマイ、大拍手うううう!

いやぁ、なんでやねん、と呆れる暇もなくお祭りに巻き込まれてしまったみたいな終わり方でありました。

ええ、タン・ドゥン先生、インターミッション前に放映されたヴィデオで、「この武道三部作はヴァーグナーの巨大な三部作に匹敵するものなのであーる」などと仰って、既にこっそりとネタバレをしてたんだわな。せんせ-、なかなか周到だぞ。こう言っておけば、誰も文句はいわんもんなぁ。あ、なんで「3つの復活」なのかといえば、作曲家兼指揮者さんに拠れば、これらの武闘映画全てのテーマは「ヒロインの自己犠牲」なんだそーな。で、リング・サイクルとは逆に、最後に自己犠牲で死んでいったヒロイン達が水による世界の再生の中で復活し、生け贄の乙女の祭りは復活へ、ってこと…らしーです。あ、ハルサイに関しては、作曲者さんは全く触れてませんが、誰が聴いてもそーだからねぇ。

とにもかくにも、いろんな意味で「中国パワー」をあらためて見せつけられた《武闘三部作》でありました。そうそう、今、「武闘」と変換しようとしたら「舞踏」と出たので思い出して付け加えれば、中国のワイヤーアクションを多用したスタイリッシュな格闘系映画って、これ、限りなく舞踏ですね。ですから、この武闘芸三部作、要はバレエ音楽の演奏会用組曲みたいなものとも言えるわけですは。西洋系のリズムとはまるで違う、あるんだかないんだか判らぬパルス感なんだけどさ。

なるほどぉ、タン・ドゥン先生にとっては、ヴァーグナーに本気で対抗するのは《始皇帝》じゃなくてこっちなんだなぁ、と納得した次第でありまする。また視たいか、といわれれば…もう一生ぶん堪能させていただきましたです、と申すしかないでありましょう。ふううう…

ちなみに、どんなもんか断片を眺めてみたい方は、tan dun martial arts trilogyでYouTubeを検索すれば、だあああっと出て来ます。ただ、第4曲については、出て来ませんね。これ、どういう氏素性なのかしら。

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「決定的演出」というもの [現代音楽]

香港で開催される現代舞踏&演劇&視覚芸術のビエンナーレNew Vision Arts Festival、昨日初日を飾る筈の細川&サッシャ・ヴァルツ《Matsukaze》が台風直撃で延期になり、本日先程、台風一過香港とは思えぬ遙か深圳の向こうの山々まで臨めそうな好天の香港湾に面した香港文化中心大劇場で、アジア圏初演が無事に成されました。客と同じくらいの数のホールの人がいる感じで、カメラなんて客席で出そうものなら猛烈に叱られるので、露出チェックなど出来ずに一発押した隠し撮りカーテンコール。大失敗ショット。
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某月刊誌にちょー短いレポートを入れることになってるので、中身そのものについては触れられません。ゴメンです。で、そこには絶対に書けない、でももの凄く重要だなぁ、と感じさせられたことについて。

さても、「現代作品」を接する際に古典や既に上演が重ねられてきた作品と決定的に違うのは、創作者がそこにいて、その意志がなによりもはっきりと働いている、という事実でありまする。当たり前のこと。

で、今世紀に入った最初の年に初めて舞台に上げられたこの作品は、「オペラ」であります。所謂ロマン派時代のイタリア歌劇みたいな「オペラ」というよりも、フィレンツェ・カメラータやらフランス絶対王政時代やらの「ありとあらゆる芸術(世間の役にはなーんにもたたない人間の創作行為)を全部ぶち込んだ総合的なパーフォーマンス」という意味でのそれ。いまどきに普通に使われる言い方をすれば、「オペラ・バレエ」というのがいちばん適切でありましょう。

なんせ、今回も「音楽祭」ではなく「現代舞踏芸術祭」のオープニング、メインは失礼ながら主人公は作曲家の細川氏というよりも、舞踏演出家のサッシャ・ヴァルツ女史であることは隠しようがない。文化中心のショップにも、細川氏の著作は置いてないけど、ヴァルツ女史のステージ写真集はドカンと真ん中に置いてあるしさ。

つまり、「細川のオペラ《松風》」ではなく、「細川&ヴァルツの《Matsukaze》]で、国際芸術祭らしく記される出し物の国籍は、日本ではなくドイツ、でんがな。

まあ、実際、舞台を目にすると、少なくともこの舞台に接する限り、この作品はヴァルツ女史の演出というか、舞踏カンパニーがなければあり得ないとしか感じられない。実際のところ、ヨーロッパでは他の演出家による舞台も出ているようですが、数ヶ月前のシンポジウムで細川氏御本人曰く、「いくつか演出があるけど、ホントに酷いものもあります」。それほど演出の比重が大きい総合作品なわけですよ。

で、目の前には、初演のプロダクションの何度目かの上演があるわけです。無論、演奏者やダンサーは変わっていますが、基本、細川&ヴァルツがきっちり監修している「オリジナル初演版」であります。

「オペラ」という総合的な出し物の場合、初演の版が大成功を収めてしまうと、そのトータルがひとつの作品として強く印象づけられてしまう例は珍しくありません。現代作品の場合、我々はその最初からを知っているわけで、それこそシカネーダー演出のアン・デア・ヴィーン劇場で出た《魔笛》とか、ヴァーグナーがバイロイトで出した《パルシファル》とか、そういう今は知るよしもないがなんか相当に決定的なものだったらしい、というのと同じような位置づけの舞台を、目にすることが出来る。いちばんの例は、グラス&ウィルソンの《浜辺のアインシュタイン》でしょうし、そーねぇ、アダムス&セラーズの《中国のニクソン》も、同じような位置づけかな。後者はともかく、前者は未だにほぼ全ての人にとってあのウィルソン演出こそがアインシュタイン、というイメージでありましょう。

細川&ヴァルツの《Matsukaze》も、そういうレベルの完成度の舞台です。だから、これは一度は作曲者演出家が生きてる間に観ておかないとダメ、ということ。

なんだか大絶賛、何度も公演がある舞台のプレミエが出た翌日の新聞批評記事みたいなものいいだけど、残念ながら明日の2公演で香港の舞台はオシマイ。流石にもう東京からは間に合いません。悪しからず。

さても、以上を踏まえつつ、「商売では書けないこと」をサラッと言いますと…

これだけ完成度が高いと、他の演出は大変そうだなぁ。

舞台については言いたいことはいろいろあります。なによりも、元ネタの能を頭に浮かべていると、ともかく冒頭の波のテープ音だけによる前奏曲から舞われる舞踏が、やたらと動きます。能みたいな「最小限の表現で最大限のインパクトを引き出す」というタイプの舞踏表現ではありません。ヨーロッパのオペラハウスの舞台で聴衆に普通に受け入れられる動きです。音楽にしてもも、基本は猛烈に抑制しているとは言え(20世紀末頃からの細川氏の作風の集大成なのは、やっぱり「オペラ」っぽい)、松風村雨が幽霊と判明して嘆き始めるところの表現とか、クライマックスの行平からの衣装を着けて松風が舞うところのソロ&群舞とか、もう全く「オペラ」であり、「モダンダンス」の濃厚な表現であります。濃厚、というのは正しくないかも知れないけど、普通にヨーロッパの劇場でオペラやモダンダンスを眺めている人々が「ああ盛り上がってるなぁ」と感じるような、ストレートな表現であります。つまり、当たり前だけど、全然「お能」じゃありません、ってこと。

個人的にはいちばん印象深かったのは、舞台写真に盛んに出て来る松風&村雨幽霊シスターズが網のような斜幕に絡まりながら上から降りてくる第2場から、真四角な枠だけで須磨の貧しい庵が表現された箱が降りてくる第3場への転換の、波の音の上にチェレスタだかなんだか(よーわからんかった)が最弱音で鳴っている後奏から転換の場面。弱音、無音が猛烈にインパクトのある響きとして聴こえ、比喩的に言えば《ヴォツェック》の殺人の後のB音のクレッシェンドの真逆、無音がどんどんクレッシェンドしてくる、みたいな圧倒的な静寂感が、全曲の中で最も印象的だったですね。へええ、すげえええぞ、細川先生、と思わされた。

もとい。で、こういう創作の最初から関わった猛烈にインパクトのある演出、演出が作品ともう離れないくらいにくっついている舞台となると…さああ、これじゃない舞台再現ってありえるのか、と感じざるを得ない。

現実問題として、この作品が日本でやられていない理由のひとつは、能としての《松風》を知っている人が多すぎるところだと、いくら「これは能じゃないんですよ」と繰り返したところで、率直にそう思えるわけがない、ってことなんじゃないのかしら。能の舞台を知らない、能の表現というものを知らない聴衆が相手だからこそ、これだけのものが出来たし、受け入れられたのだろう。さあ、どーするどーする。

ともかく、この作品を日本で出すには、ヴァルツ女史の演出に匹敵する猛烈にインパクトのある、コンセプトのしっかりした舞台を出さねばならない。さあ、どーする?個人的には、舞踏を一切廃して、徹底的に精密な楽譜の再現を前に出し、極めて抑制されたCGやアニメーションの表現で…という、一種の滅茶苦茶本気な「映像付き演奏会形式上演」がいちばんあり得るのではないかなぁ、と思うんですよ。

そー、それなら、例えば、広島でもやれるでしょ(昨日日本から来ていた某関係者氏によれば、カンブルラン御大は台本に問題ありということで上演する気はないらしいので、さああ川瀬くん&広島オペラ・ルネサンスの皆様の出番です!初台の関係者も来てたので、突っ込み先はあるぞ!)。ってか、広島で目指す方向は、このサッシャ・ヴァルツとはまるで違うものをどう探るか、という大きな、でもやりがいのある挑戦なんじゃないかしらねぇ。

おお、当無責任電子壁新聞とは思えぬ、まともな発言で今日はオシマイ。お疲れ様でした。

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プミポン国王追悼 [現代音楽]

タイのプミポン国王が崩御なされたとのことであります。これでタイの内政がどうなるのかとか、マレー半島情勢はどうなるのか、そういう面倒な話はいろいろとあるのでしょうが、とにもかくにも、長い統治お疲れ様で御座いました。昭和天皇にも匹敵し、あとはエリザベス女王くらいでしょうねぇ、20世紀という時代をホントに生きてきた最後の王族のひとり。

ええ、王様の体調のことなんぞ何一つ知らず、わしら極東の島国のノンビリした住民のうちの数百人は、たまたま先週、国王が作曲なさったオーケストラ曲を耳にしたわけでありました。アジア・オーケストラウィークで2度目の来日を果たしたバンコク交響楽団が、アンコールで国王の作品のオーケストラ編曲版を演奏したのでありまする。
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そればかりか、終演後のロビーでこんなCDを無料で配布しておりました。
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なんとなんと、同オケが録音したプミポン国王作品集でありまするっ!これが曲解部分。勉強になるなぁ。
プミポン国王曲解.pdf

思えば、今日の日を予期しつつオケマンは演奏していたのでありましょうか。それを思うと、へええ王様の曲ってこんなんねん、なんてぼーっと思ってた不届き極まりない己が恥ずかしいでありまする。

このCDの中で、追悼に相応しそうな音楽を拾って貼り付けようと思ったのだが、案外難しい。で、バラード作品《Blue Day》なる音楽を、当電子壁新聞を立ち読みの皆様にもお聴きいただきましょう。って、YouTubeに上がってるのを拾ってきただけだけどさ。

なんか、歌が入ってちょっと追悼とは違うかな、という気にもなるけど、これで国王を偲んで下さいませ。

また、20世紀が遠くなった。

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弦楽四重奏とDJと老人と若者と [現代音楽]

「ハイドン+バルトーク(かヤナチェック)」、それに続くロマン派のラウンドが終わり、本日のバンフはセッションはお休み。弦楽四重奏は明日の委嘱新作ラウンドに向けて自分らの練習室に籠もりっきりの日であります。とはいえ、バンフ・センター内に泊まり込んでるレジデント聴衆はいるので、イベントはあります。もっとも、せっかく世界に冠たるカナディアン・ロッキー観光の中心地にいるのだからと、泊まりがけで山に入って現代曲セッションが始まる明日の午後までには戻ってくる、なんて猛者もいるそうですが。

センターが用意してくれたイベントとは、「アフィアラQとDJのコラボレーション」であります。前々回のいろいろ曰く付きの大会で優勝ならず2位となったアフィアラQ、その後、いろいろあったけど、チェロのアドリアン・ファン氏がなかなかの才気煥発な奴で、トロントをベースに手広い活動をしている。まあ、そういう動きになれば当然メンバーの中にもついていけない奴がいるわけで、今はバンフに来てたメンバーの半分が入れ替わっている。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2016-08-16
ま、それはそれでプロとして弦楽四重奏で喰っていくのはいろんなやり方を自分らで考えねばならぬわけで、意見も割れて当然。一緒にやっていけないと思う奴が出て来るのが当たり前。それをどうこういうわけではない。

問題は、やってることでありますわ。正直、解説を読んでも何をするのかちっとも判らない。こちら。
https://www.banffcentre.ca/events/bisqc-spin-cycle-afiara-string-quartet-and-dj-skratch-bastid
この公式ページの写真のレコード噛んでるあんちゃんがDJさん。めんどうなんで、まんま内容をコピペしますと…
This concert features compositions from four of Canada’s leading young composers (Kevin Lau, Laura Silberberg, Rob Teehan, and Dinuk Wijeratne) who were commissioned by The Afiara Quartet to write new works for a string quartet inspired by popular themes. Performed by Afiara Quartet, each of these works was then remixed by DJ Skratch Bastid, to create four new solo works for scratch DJ, which was 're-re-mixed' by the original four composers. These re-composed works will be performed live in concert in the form of a quintet (The Afiara Quartet + DJ Skratch Bastid).
トレーラーのヴィデオも付いているので、どんなもんか判るでしょ、ってことになってる。

けどさぁ…判らんよねぇ。いきなり「モーツァルトやハイドンは当時の最先端ポップミュージックだった」なんて、しばしば言われるけど実ははっきり嘘だった発言がされて(今に至る「クラシック音楽」の価値観と在り方が創られたのはスヴィーテン男爵の音楽協会だったのは歴史的な事実なわけですから、そこに出入りしてハイドンセットなんかが生まれてきた以上、明らかにポップ音楽とは一線を画した価値観だったことは否定しようが無い筈なんだけど、ま、そこを喧嘩するのは今は止めましょか)、それから弦楽四重奏の演奏するクラブ風リズム系音楽に、DJサウンドの基本たるレコード弄ってきゅっきゅ、って響きが重なってくる。ぶっちゃけ、これをライブでやりますよ、ってイベントでありまする。

連日、弦楽四重奏がバルトークやらハイドンやらを弾いてきた同じ会場の同じ舞台には、下手に弦楽四重奏の譜面台と椅子、上手に所謂DJのセットが置かれ、後ろにでっかいスクリーンがおりてます。
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会場ロビーは当日券で街からやってきた若い聴衆もいっぱいで、みんな飲み物もって会場に入ろうとして、もぎり(ってか、マシンでピッピってチェックする)オバチャンは一生懸命止めるのだけど、とても止めきれずに客席はディスコか映画館みたいにでっかい飲み物抱えた若者が半分くらい。あとの半分は、レジデントの聴衆。無論、爺さん婆さんですう。

弦楽四重奏とDJさんが登場、もう若い聴衆はキャーキャー、と歓声を挙げてらっしゃいます。アフィアラQは席に着くやiPad楽譜を前に据え、楽器にマイクをくっつけ始めます。足下にはスピーカーが置いてあります。で、ファン君が趣旨についてちょっと話し、まずは委嘱した作品を弾く。アンプリファイされた生音弦楽四重奏は、連日響いていて「聞こえないぞ」という声が挙がっている生音とはまるで違う。そりゃそーだ、ちゃんとバランスやら音量をコントロールするエンジニアが客席いちばん後ろに陣取ってちゃんとコントロールしてるんだからねぇ。つまり、クァルテット側の仕事がひとつ減ってるわけですわ。中身は、プロモーション映像で流れてるようなもんです。ものすごくポジティヴに言えば、クロノスQが開いた道を先にすすめてるようなもの、日本ならモルゴーアQがある世代をピンポイントで熱狂させてる音楽をアンプリファイしたようなもんです。

15分弱くらいの曲が終わり、DJの方がどうやら今弾かれた曲を事前に録音した音源を弄り回しライブでターンテーブルやらなにやら弄って曲を作る、ってことをします。その様子が、後ろのスクリーンにでっかく映し出される。どうやらこういう音楽は途中で盛り上がりが一段落すると「いぇい」とか「キャー」と叫ぶのがマナーなようで、若い方々は粛々とマナーに従った嬌声を騰げていらっしゃいまする。なるほどねぇ、どの世界にも聴衆のマナーがあるのだなぁ。勉強になるなぁ。シュトックハウゼンなんかが額に皺よせてやってたことが、こういう風に「ポップ」に消化されていくんだなぁ。この若い聴衆、《光の火曜日》の第2幕なら喜んで聴きに来ると思うなぁ。まじで。

で、それから、両者のコラボレーションになります。アフィアラが弾いて、DJさんが独奏した音楽をさらに即興で弄っていくらしい。らしい、ってのは、正直、普通の意味での変奏でもなければ、モチーフの操作展開でもなければ、リズムやら和声(コード進行、というべきなのか)を維持しながらなんかするとか、そういうのじゃない。ぶっちゃけ、あたしにゃ、なにがどう変容されてるか判らないけど、どうやら同じ素材からの「コラボレーション」らしい。そういうもんでした。演奏途中でDJソロのきゅぃーんみたいな響き(思わず、《光の火曜日》の音響ミサイルだぁ、なんて思ってしまった)が出ると、客席はきゃああああっと沸く。そういうもんらしいぞ。うん。終わると、スタンディング・オーヴェーション。

演奏会は、結局、2曲やって1時間ちょっと、まあ、普通のライブの半分くらいの規模だったのかしら。終わると、案外とさっぱり、三々五々、秋の始まったバンフの山から若者は車でどっかに去って行きました。のこされたじいさんばーさんは、センターのバーに行ってどぐろを巻いて、なんのかんのなんのかんの世が更ける。

クァルテットが、絶対にバルトークやハイドンでは聴衆にならない若い人達へのアウトリーチとして、クラブやらに進出し、DJとコラボレーションして生活の場を広げていくという在り方は、全く不思議はありません。なんせ、所謂クラシック音楽の専門教育はぶっちゃけ超オーバースペックで、バンフのコンクールに来るクラスの連中ならば、そういうことをやれと言われれば簡単にやれる。無論、その筋の専門家の方々や専門聴衆からすれば言いたいことはいろいろあろーが、言いたいことを理解し、それなりに対応する能力は極めて高い音楽家達です。こういう作業は、それほど難しくなくやれるでしょう。問題は、やる気があるか、やる機会があるか、そしてなによりも、やれるメンタリティがあるか、です。

聴衆の中には、ヴェローナQのセカンドとヴィオラ嬢、なぜか今日から来てるエッシャーQのチェロ君なども座って、いぇい、と声を挙げてました。

そう、彼らは「若者」なんだわさ。さても、爺らはどーするねん。

明日は1日、ゲンダイオンガク。

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ミュンヘンARD2次に何を選ぶか [現代音楽]

敢えて「弦楽四重奏」じゃなくて「現代音楽」カテゴリーの与太話。

今年は、バンフとミュンヘンARDの弦楽四重奏部門がモロに重なって、狭い業界内で「なんとかならんのか」と騒動になったけどミュンヘンは放送局ということもあって一歩も譲らず、結局、「北米国際大会」と「ヨーロッパ大会」になっちゃったのは関係者の皆様はよくご存知の通り。両方通って、どっちを選ぶべきかと悩んだ団体の選択に、今の業界内での両コンクールの位置づけが見えて面白かった、などと言ったら不謹慎かしら。

小生はバンフは全部いて、終わったらミュンヘンに向かい、なんとかセミファイナルとファイナルだけは眺める、という日程にしました。まあ、バンフの特殊性を考えれば、見物する側とすればこれしか手はないでしょうねぇ。

とはいえ、もの凄く心残りなことも事実。ってかさ、今年のミュンヘンは「審査委員長ギュンター・ピヒラー」という発表があった時点でのドン引き、ってか、まあ、「あああああ、御大かぁ…」というハラホロ感というか…。過去、ピヒラー氏が審査委員長になったメイジャー大会で起きたこと(っても、一度だけで、それで充分なわけだが)を鑑みるに、敬遠すべし、と思っちゃう先生も少なくないことでしょうねぇ。

わああ、みんな思ってるけど口に出して言ってはならないことを言ってるような気がするなぁ…

もとい。で、何が残念って、やくぺん先生の日程では、バンフ及びミュンヘン全てのラウンドを通して、ホントはいちばん面白いラウンドが聴けないことなんですねぇ。そー、課題曲をご覧になれば一目瞭然、ミュンヘンの2次予選ラウンドであります。

そもそもミュンヘンは1次もそれなりに興味深い。作品18かハイドンの主要曲からひとつと、もうひとつは以下からの選択。
Alban Berg, Lyric Suite
Berthold Goldschmidt, no. 1 or no. 2. or no. 3
Pavel Haas no. 1 or no. 3
Paul Hindemith, op. 16 or op. 22
Leoš Janáček
Gideon Klein
Hans Krása
Arnold Schönberg, no. 3 op. 30
Erwin Schulhoff
Igor Strawinsky, Three pieces and Concertino
Viktor Ullmann, no. 3
Alexander Zemlinsky, no. 2 op. 15

一昔前なら「現代曲」扱いだったものが、「ロマン派後期から近代」という独立したジャンル扱いになってるんですな。ま、これはもう、ヒンデミット専門家を目指すアリスQとかを除けば、半分くらいの団体がヤナーチェク、残りが《抒情組曲》、練習時間に余裕が無くて派手なもんを選びたい奴らはシュルホフ、ってことになるでしょうねぇ。シェーンベルクの3番を選んだら、もうその瞬間に褒めてやりたいぞ。

で、ホントに凄いのが、2次予選です。ひとつはベタベタのドロマン派作品(流石に《アメリカ》はダメ、というのは当然でしょうね、これで敢えてシューマンの2番をやったりする奴らがいるだろーなー)、そしてもう1曲は、以下からの選択です。
Luciano Berio, Notturno
Pierre Boulez, Livre pour Quatuor (1948/49)
John Cage, String Quartet
Elliott Carter, no. 2 or no. 4 or no. 5
Franco Donatoni, La souris sans sourire
Henri Dutilleux, Ainsi la nuit
Hans Werner Henze, String Quartet no. 5
György Kurtág, Officium breve
Helmut Lachenmann, String Quartet no. 3
György Ligeti, no. 1 or no. 2
Conlon Nancarrow, String Quartett no. 1
Wolfgang Rihm, no. 4 or no. 9
Iannis Xenakis, Tetras

わああああお!さああああどーする、若い人達!このラウンドの演目を見て、「ミュンヘン、やーめた」と思った団体もあるんじゃないかな。

まあ、普通に考えて、8団体くらい残すだろうから、そのうちの6つくらいがデュティユーかリゲティの1番、残りがクルターク、ってところになるんだろうが…それ以外を弾いた奴らがいたら、「あんたらは偉いぞやくぺん賞」をさし上げたいぞ!アリスがヘンツェを弾いてくるかもなぁ。

ホントに、このラウンドに間に合わないのはなんとも残念であります。ストリーミングがあるのは3次予選以降だしなぁ。

とうとう弦楽四重奏業界にまで韓国勢が、と地元で言われそうなミュンヘンARD、さても、どうなることやら。最大のポイントは、「御大が優勝を出すか」でしょうねぇ。もしも優勝無しだったら、ゴッソリそのまま来年の大阪に流れてくるぞ、しーらないぞしらないぞ…

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晩夏のNYCは日本人作品ラッシュ [現代音楽]

来週の頭から酷暑の列島を離れるのですけど、月末に久しぶりに滞在するマンハッタン厄偏庵から出張るのは、何故か所謂「現代音楽」ばかり。ま、帝都にいたって溜池で現代音楽三昧だったわけだから、場所が変わるだけかいな。

まずは、前の晩にケープ・コッドでボロメーオQを聴いて朝からバスでマンハッタンに向かうので、ちゃんと時間に到着出来るかギリギリになりそうなこの演奏会。
Part of TOMODACHI Suntory Fukushima Mirai Music Program
A concert featuring World Premieres by Very Young Composers of Fukushima and New York expressing feelings about their homelands. Students will perform and improvise with musicians of the New York Philharmonic.
http://nyphil.org/concerts-tickets/1516/very-young-composers-of-fukushima-and-new-york

これ、要はこの前のNYP日本公演で行われたイベントのNYでのヴァージョンみたいですね。SONY財団さんがこういうレポートを入れてた演奏会。
http://www.smf.or.jp/30th/special/report01.html

お嫁ちゃんはもう今月から溜池は契約が切れてるし、あたくしめもSONY財団のお手伝いはこういう部分じゃないので、お仕事ではありません。こんな時期のNYCなんて誰も来ないだろうから、ちゃんと誰かが見てあげないとねぇ、というのはあるけどさ。

もうひとつはこちら。
http://mostlymozart.org/events/international-contemporary-ensemble
モストリー・モーツァルト音楽祭というと、日本では何故かオーチャードホールがちょっと絡んで「日本公演」をやったこともあって、そのときのイメージから「モーツァルトとその周辺の作曲家」に焦点を当てたもんだと思われてるでしょうねぇ。まあ、実際、そういう気楽な夏の閑散期イベントとして始まったことは確かだけど、流石にというか当然というか、ニューヨークはマンハッタンという場所だけあってそれでは済まず、いろんな風に展開してきて、今では正に溜池で現代音楽祭をやってる頃は1週間の現代音楽祭になってます。

どーでもいいことだけど、この公式ページの指揮者さんの写真、クレジットが明らかに日系か日本人なんだけど、どーしてなんじゃろーか?NYには日本人のフリー音楽カメラマンさんがいて、NYTの音楽記事なんかに写真を提供しているけど、あの方なのかしら。

ま、ともかく、こういう演奏会がありますよ、という自分のメモみたいなもんでした。ところで今年の溜池って、テーマなんだっけ?

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