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イサン・ユンとかウンスク・チンとか [現代音楽]

おいおい、もう三月弥生ではないかぁ。

ってわけで、本日から週末までで絶対に税金作業を終えねばならぬので、本日は放っておくと確実に忘れるニュースのみ。

ええと、どういう風に話題になってるかよー知らんですが、今年はイサン・ユン記念年です。で、いろんなイベントがあります。
http://www.boosey.com/cr/news/100951
中でも、手近なところで大きいのは、今月末から来月の最初の週に開催されるトンヨン国際音楽祭でありましょう。アルディッティQなんぞが来て、イサン・ユンの曲をやる。これ、商売にはならないだろうけど、なんか、うずうずするなぁ。釜山から直ぐだもんなぁ。残念ながらアーヴィンたちの日はあたしゃ沖縄日帰り等々でもう動けないのだが、エトヴェシュのオペラは魅力的だなぁ…
http://www.timf.org/eng/ticket/concertList.do?board_id=153&onair=y

もうひとつは、今やお隣の作曲界を代表する大御所となりつつあるウンスク・チン様。
http://www.boosey.com/cr/news/100948
こっちはモロに日本のゴールデンウィークのケルン…ってことは、日本からの飛行機は高い、ってことです。ま、ケルンなら、いろんな情報は入ってくるでしょうから、これはこれ、ってことで。それにしても、《不思議の国のアリス》は、案外ハードル高いんでしょうか。なかなか舞台上演がないなぁ。そんなに観たいとは思わんけどさ。

以上、トンヨンをどうするか、己を悩ませるためだけの情報でありましたとさ。さあ、税務作業じゃ。

人の動きを否定する舞踏 [現代音楽]

これはやっぱり「現代音楽」カテゴリーだわね、ホントの意味で。

第45回香港国際芸術祭参加公演、「バイエルン州立劇場バレエ団Ⅱ」の公演を、香港芸術院の大きい方のホールで眺めてまいりましたです。オイストラフQとブルノ歌劇場《マクロプウロス事件》の間の日。

バレエなんて無縁なやくぺん先生がなんでそんな若手舞踏団(バイエルン州立劇場バレエ団引っ越し公演にしてはお安いなぁ、と思ってたら、「Ⅱ」、即ちベルリンフィルと信じて客席に座ればなんとまぁベルリンフィル・アカデミーだった、みたいなもんですわ)を日本円で8000円以上なんて大枚叩いて2階正面1列目なんて立派この上ない場所で見物するかといえば、もうひとえに演目故です。なんせメインとなるのが、あのロボコンのロボット群みたいな着ぐるみで有名なバウハウスの巨匠オスカー・シュレンマーの《トリアディック・バレエ》の本気のリプロダクションだというのだから、これはもう指をくわえて宿でボーッとしてるわけにはいかんでしょうに。
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現代舞踏関係の方なら説明なんぞ不要、衣装デザインだけなら、そうねぇ、フリッツ・ラング監督『メトロポリス』のマリア様くらいに有名な、20世紀前半大戦間時代のアイコンでもあるようなもんたち。こんなもん羽織って舞台の上をクルクルひらひら舞うのかいな、って呆れること必至の奴でんな。舞踏なんぞの世界は幼稚園生並の知識しかないやくぺん先生としても、「20世紀に舞踏の意味を問う3つの作品を挙げよ」と質問されたら、《春の祭典》(総合的な意味で)、《紅色娘子軍》(舞踏芸術が20世紀というコンテクストの中でどうやってリアリティを持つのかという意味で)、そしてこの《トリアディック・バレエ》、と答えるだろうなぁ。ま、バッテン貰いそうな解答だろうけどさ。

どんなもんか知りたい方は、YouTubeで「Triadic ballet」と引っ張ればゴロゴロ映像が出て来ますので、勝手に眺めて下さいな。

さても、本日の公演、無論、残念ながら今時のように「ステージをライブでネット配信」なんてない、映像収録なんぞ夢物語、音の収録だってままならなかった頃。舞踏譜というものは様々な試みが世に存在しているようだけど、いずれにせよ、今に判っているのは様々な制作側の資料と実演に接した観客なんぞが残した文字情報であります。
1970年代の終わり頃、前衛が終焉し、所謂「新ロマン主義」やら「表現主義再興」が叫ばれるようになった頃、バウハウスも随分と復興してきた。そんな中で、このコスチュームばかり有名な舞台作品を再現してみようという動きがベルリンとミュンヘンで出て来て、ま、当時の舞踏家さんなんぞが寄って集ってやった。音楽はぶっちゃけ、初演時にはありものが使われたそうですが、ゲルハルト・ボーナーという方が再生させたときには、なんとまぁヘスポス御大(当時は御大じゃなくて、バリバリの前衛崩れだったんだろうが)に曲を書いてもらった。で、再演され、20年近くそのプロダクションで上演されていたのだが、基本は再生初演メンバーが踊るわけで、sろそろ無理ということでオシマイになった。それを、バイエルン・バレエの二軍チームが数年前に結成されたときに、これはなかなか良いレパートリーでないの、ってことで再々生されることになって…というのがこの舞台の経緯だそーな。ああつかれた。

なんであれ、このシュレンマーの衣装そのものは、もう世界中の彼方此方で「バウハウス展」なんてのが開催されれば目玉として展示されるもんで、「へえ、これで踊るんだぁ」とみんなビックリ、どうなってるか興味津々、ということになってる次第。

さても、そういう話はネットのあっちゃこっちゃに落ちているから、それはそれとして、ともかく、アホな感想をひとことだけ。

ええ、もの凄く誤解されそうな言い方を敢えてすれば、これって、「反舞踏」なんですね。

《春の祭典》以降のモダン舞踏が、人間の身体能力をどこまでいじり回せるか無茶をさせるものなのだとすれば(そうじゃなかったらスイマセン)、これ、その正反対。「無駄な拘束具をいっぱい付けて、身体をガチガチに押さえ込んで、それで何が出来るか」って実験でんがな。無論、オブジェとしての身体、という美術の方向に向けての関心もあるのだろうし、そっちから考えれば「今時大流行のインスタレーションの嚆矢」とも強引に言えるのかもしれないけど…ま、それはそれ。

舞踏というものをなーんにも知らぬやくぺん先生とすれば、ああああ、これって一種の《四分三十三秒》だわな、って眺めてた。いかにも重そうで動けなさそうな(この演出、敢えて初演時の素材を使い、今ならいくらでも軽く作れるだろう衣装はそれなりに重くしてあるそうな)アホみたいな被り物を付けたダンサーが出て来て、訳の判らぬ音楽が鳴って、なんだか古典バレエの無理なアナロジーみたいな動きをしたり(衣装が邪魔でダンサーが手を繋げない、抱え上げられない、それどころか自分の手を組めない!)、手の先だけを動かしたり、極端な場面ではただ出て来て立ってるだけ。もう、こーなると若手芸人さんの一発芸みたいなもんですわ。出て来た瞬間のインパクト勝負!

つまり、舞台の上で妙な格好した奴がノロノロのそのそ動いて、また暗転し、12のシーンがなんのかんの1時間くらい続く、ってもんです。音楽と動きの関係は、あるといえばあるし、ないといえばない。でも、所謂「ゲンダイオンガク」が鳴ってるんで、前半のバランシンが選りに選ってチャイコフスキーの第3ピアノ協奏曲なんて超駄曲に振り付けたもんみたいに、「ひでええ曲だなぁ、やっぱり」と聴いてれば時間が過ぎる、というわけにもいかぬ。

正直、途中でつまらなくなって帰っちゃう観衆もそれなりにいました。極めて正しい反応だと思いますです。

てなわけで、このバイエルン州立劇場舞踏団Ⅱのシュレンマー舞踏リプロダクション、そうですねぇ、一度は話のネタに観ておく価値はあるとは思います。だけど、《紅色娘子軍》みたいな圧倒的なリアリティとか、もの凄い説得力とか、そういうもんじゃなくて、もの凄い知的な興味と、それから…うううん、道行く人をボーッと眺めて、あいつはなんじゃ、とか、どうしてこいつこんなことしてるんだろー、とか考えて楽しめる人ならばええんでないでしょーかね。

ともかく、「あのシュレンマーの衣装を着て、可愛らしくクルクルまわってお茶目ぇ」ってもんではありません。そこは覚悟していくよーに。

いやぁ、ホント、勉強になるなぁ。

《紅色娘子軍》はほぼ完璧な国民主義バレエなのだ [現代音楽]

一昨日、壁の向こうの1番線ホームに到着したメルボルン・サザン・クロス駅の空港バス乗り場におります。実質たった4日間の短い豪州滞在を終え、夜行便で極東の冬の島国に戻ります。火曜日にはまた香港で、普通なら戻ることはないのだが、日曜日にNPOエク総会があり、一応は顧問なる便利屋をさせていただいているので出席の義務があり、そのためだけに一時帰国です。

さても、今回のツアーの最大の目的、中国国立バレエ団《紅色娘子軍》、初演以来延々半世紀以上続く最もオーセンティックなヴァージョンによる上演、ここまで大枚叩いてくるだけの価値はあっていっぱいおつりが来る、もうこのネタだけで1年は酒が飲めるというものでありました。
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でっかい告知には「オーストラリア独占」とあり、どうやら過去はともかく最近はこの作品を外国のフェスティバルなんぞに持ち出したことはなかったみたい。やっぱりとっても貴重な機会だったんだなぁ。

以下、自分へのメモとして記すわけでありますが、なんといってもやくぺん先生、バレエというものは殆ど見物しません。この前舞台で眺めたのは…そう、初台のブリテン《パゴダの王》で、無論、踊りじゃなくて音を聴くため。ブリテン協会のオジサンとブーシーの広報のおねーさんに連れて行かれた、という感じだった。更にその前へと記憶を遡れば…そうそう、パイゾQと話をしにコペンハーゲンに行ったとき、ファーストのミッケルがコンマスを務める国立バレエ公演があり、《白鳥の湖》でミッケルのソロがガッツリあるからこれは行かぬわけにいかんでしょー、ってのかな。無論、音しか聴いてなかったようなもの。更に遡ると…記憶がないぞ。うううん。

ま、そんな程度の奴が言うことだから、以下の話を信じてはいけません。いいですかー、なんせそもそも「書いてあることはみんな嘘、信じるな」をモットーとする無責任私設電子壁新聞なんですから!

さて、バスも世界一閑散とした巨大空港アヴァロン(オーストラリア航空ショーの開催地としてのみ有名かな)に向けて走り出し、電源もアヤシいので、思い浮かぶままに箇条書き。

◆19世紀ロマン派バレエの語法が8割で、それにローカル舞踏などが加えられる。典型的な「国民主義バレエ」作品。悪辣資本家の私兵隊長やら補給部隊のオジサンなどには、中国雑伎団っぽい動きも感じさせるコミカルな細かい動きが満載。戦闘シーンには恐らくは京劇の剣舞も入ってるのであろうか。最終場の前の赤軍突撃シーンは、極めて様式化されたマスゲームのイメージも。ここで客席から拍手が上がっていたのは、この作品の観方を心得た観衆がそれなりにいる、ということなのだろう。ヒーロー、ヒロインが拳を握って踊るアイコンは、新たな語法の確立を目指したのかしら。

◆台本は些か長大な感はあるが、とても良く出来ていて、古典として生き残るだけのきっちりしたフォーマットを備えている。以下、「美少女ヒロインは理不尽な悪党の仕打ちから瀕死の状態で逃げ出す→ヒーロー率いる正義の軍団に偶然助けられたヒロインは、軍勢に加わる→最初の作戦行動でのヒロインの私的復讐欲のため、戦闘には勝利するもボスらは取り逃がす→ヒーローは闘いは私的な報復ではなく人民のためのものだとヒロインと娘らを再教育→美少女や海南島住民の平和な時を描く温泉回及び日常回→戦闘美少女としての自覚を得て成長したヒロインも加わり、赤軍と海南島解放軍連合の総攻撃開始→撤退戦の最中にヒーローは負傷、敵に捕らえられる→悪党との妥協を拒否したヒーローは、インターナショナルが高鳴る中に火炙りにされ壮絶な最期を遂げる→師匠を失った哀しみを堪え、紅色娘子軍と赤軍及び海南島解放軍の総攻撃開始→ヒロインの一撃で命乞いをするラスボスはあえなく最期を遂げる→インターナショナルが高鳴る中、革命に殉じたヒーローに祈りを捧げ、戦闘美少女軍は世界の開放のために前進を続けるのであった。そうだ、僕たちの闘いはこれからだ!」。これ、美少女アニメのストリーじゃありませんよ。要は、深夜アニメの戦闘美少女もの12本1クール分くらいに必要な要素は全て過不足なく詰め込まれ、「闘う美少女もの」アニメを一気見したときの感じまんまであります。正に古典中の古典。

1960年代人民中国の文脈に当て嵌めれば、「人民解放軍とは何か?」、「本当の敵は誰か?」のプロパガンダでありますな。それを、極めて技術的に高い舞踏で展開し、音楽はこれ以上「いかにも」なものはないもんがくっついてる。で、ストーリーのポイントは、「復讐を越え虐げられた人民の為に闘う戦士への哀しみを乗り越えての成長」。これって、どうなんでしょうかね、バレエの物語素としてはいくらでもあるものなんでしょうか。あたしゃ、よーわからんです。
19世紀に今の近代市民主義国家が形成されるとき、山のように出て来た国民オペラやバレエは、果たしてこんな風に見えたのかしら。国会議員ヴェルディ氏が作曲する《シモン・ボッカネグラ》はイタリア統一の融和を描いたものとしてこんな風に聴けたのかしら。《ローエングリン》や《マイスタージンガー》の「ドイツ」連呼は、こんな感情を搔き立てたのかしら。

この作品にリアリティがあるかとなると、うううん、少なくとも殆どの日本国民とすれば「イロモノ」という括りに入れて他人事として眺めたいでしょうし、それ以外に見方はないのかもしれんとは思うです。21世紀の今、「己の私欲を追求する資本家VS連帯した世界人民」というVS構造は、どうなんだろうなぁ、「貴方も私もみんな、大企業組織を前提にしないと生きられなかったり、大資本を支える株やったりしてるプチ資本家」となった資本家勢力勝利後の世界に生きる我々庶民は、この構造をアクチャルなものとして受け入れられるのでしょーかねぇ。お疲れ様のプリマドンナさん。
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「紅色娘子軍は前進する、前進、前進!」と舞台の上から戦闘美少女率いる赤軍や現地解放軍が歌いながら(ホントにダンサーさんが歌ってます!)客席へと永遠に進軍してくる終幕、やくぺん先生の隣に座った中年になったばかりくらいの中国人と思われるオッサンは、一緒になって歌ってました。少なくとも、その中身をどう思ってるのかは知らぬが、この舞台はこのオッサンや隣の嫁さんには明らかに生きている。「爆笑」で済ませ、「なかったこと」とする対象ではない。

もうすぐアバロン空港です。ま、ともかく、今、この瞬間に記憶している《紅色娘子軍》の感想は、これにてオシマイ。取り落としたこと数多、ホントに若くて北京語を基礎からきちんと勉強出来るだけの時間が残されていたら「俺、これで本を書きたい」と思ったろうなぁ。うううん、ホント、まだまだ生きてるといろいろ勉強になるもんだ。

ぜーんぶベートーヴェン…もどき [現代音楽]

てなわけで、昨日はバタバタと大阪日帰り。その目的のひとつが、いずみシンフォニエッタのこの演奏会でありました。
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皆様よーくご存じのように、いずみホールが御上なんぞから助成金をがっつりいただいちゃったんでしょーがないからやるべーか、なんてことまるでないのにやってる、誰がどう考えても稼げそうもない「現代音楽」専門室内オーケストラの定期演奏会でありまする。「現代音楽」とはいえ、「おっかないゲンダイオンガク」じゃあなくて、あくまでも「オモロイ現代音楽」をやってまっせ、がモットー。

1950年代前衛が「現代音楽」=「わけわからんもん」というイメージをがっつりと確立させてから、時流れ今や半世紀以上が過ぎ、それでもやっぱり「現代音楽」=「難しい、わけわからん、しんどいだけで誰があんなもん金払って聴くんねん」という状況はさほど違っているわけではない。ま、それがどうしてかとか、あまりにもでっかい問題なんでこんないーかげんな私設無責任電子壁新聞で議論する気にもなりませんけど、事実としてそーとしか言いようがない。いずみホールの皆様とすれば、「ましてや大阪ですし…」などと付け加えたい気持ちにおなりになるやもしれませんが、ま、それはいずこも同じでんがな。

んで、なんのかんのあれやこれやで「それなりに聞いて楽しい、おもろい現代音楽」をやってきたいずみシンフォニエッタ、今回わざわざ日帰りで聴きに出向いたのは、なんとまぁ、このオケが「オール・ベートーヴェン」プログラムをやる、というから!っても、ちゃんと言えば、「オール・(もとは)ベートーヴェン」なんだけどね。

なんせ冒頭から、かのシュネーベル御大の「《運命》交響曲第1楽章から冒頭のジャジャジャジャーンのリズム・モチーフを抜き去ったらどーなるか」というとんでもない発想を大真面目でやっちゃった楽譜ですから。これ、ライブで聴いたのは初めてなんですが、敢えて猛烈に失礼な感想を言わせていただけば、「あ、俺、こういうパルス感皆無のむちゃくちゃ府抜けたベートーヴェンのクァルテット演奏、聴いたことあるぞ」と真面目に思ってしまいました。どの団体、とは言わないけど、「もの凄く新鮮といえばそれまでだが、これ、ベートーヴェン怒らないかぁ」なんて真剣に思ったあの演奏この演奏が頭に去来し…

要は、演奏というレベルではことによるとこれに近い「楽譜の異化」は散々に行われているのではないか、なんて考え込んでしまったであります。はい。

続いては、川島素晴氏編曲の弦楽合奏版《大フーガ》。え、でしょ。普通に作品133の楽譜買ってきて、指揮者さんがガーガー文句言いながら、普通にやれば良いじゃない、って思いますよね。どうして敢えて「中堅」という言葉に恥じない活動をなさっている作曲家さんが、わざわざ編曲せねばならないのか。別に弦楽合奏とはいえもの凄くバランスが奇妙とか、そんなハッタリがあるわけじゃない。正直、バランスから言えば、もうちょっと下が厚くても良いんじゃないとは感じるものの、まあ指揮者さんがいるんだからそこはなんとでもなるべー。

で、結論から言えば、もしかしたらこの日の演奏会でいちばん「わけがわからない」という印象だったのは、ちょっと見にはいちばんマトモにしか見えないこの曲だったかも。こっちも《大フーガ》でしょ、ってことでボーッとしていて、あっちこっちに細かい仕掛けがあれこれとなされているのにあれよあれよといううちに終わってしまったです。やくぺん先生のようなへっぽこロバの耳には、明らかに奇妙なのはコーダ前のもう一回フーガいきましょか、ってなりながらいかなくなる辺りで、ヴァイオリンがなにやらハーモニックスみたいなもんをピリピリ鳴らしてたり、ってとこくらいなんだけど。ま、いずれ近い将来、公式のライブ映像配信がある筈なので、ご関心の向きはしっかりそちらをご覧あれ。

まあ、つまるところ、「作曲家川島氏に聴こえる《大フーガ》はこうだ」ということなんだろうなぁ。そういう意味では、へええええ、と思えたり思えなかったり。ぶっちゃけ、よーわからん。ただ、少なくとも弦楽四重奏版とはまるで違うことは確かです。

なんだかもう疲れてきたので、西村朗氏のベートーヴェンの第1から第8交響曲のあちこち断片を、各楽章毎に用いながら次々とコラージュした大序曲に関しては、それこそライブ配信があったらお聴き逃しなく、とだけ記しておきましょう。これはもう、理屈抜きに大爆笑。だけど、かの有名な山本直純作曲交響曲第45番《宿命》とはまた違った質のものです。巨匠作曲家がベートーヴェンのモチーフをあれこれ混ぜ合わせてコラージュを本気で作ってる。何より秀逸なのは、第2楽章の終わり方。へええええ、ってね。かの「終わるに終われぬ病」ベートーヴェンを一喝するかのよーでありまする。

んで、後半はなんとなんと、再び川島編曲で室内オケ版《皇帝》。ソリストは豪華若林さんですから、もうまるっきり本気でんがな。コントラバスひとり、チェロふたり、管はホルンは2本だけど他は全部ひとりで、なぜかトロンボーンまで座ってるぞ。ちゃんとティンパニーはおりまする。

今時、室内オケと呼べる小規模編成でこの曲をやるとすれば、ピアノはアントン・ヴァルターのレプリカだとか、1810年のブロードウッドのオリジナルでございとか、そんなもんじゃろ、と思ってしまいますよねぇ。ところがどっこい、若林さんの前に置いてあるのはモダンのスタインウェイです。で、もう容赦なく、ガンガン弾きます。わああ、ピアノもんのすごーーーく聴こえるじゃん、ってことになる。少なくとも、どんな部分でもオケがピアノをカバーしちゃってせっかく細かい音符弾いてるのにわかんないよー、ってことは全くない。

「編曲」とは何なのか、いや、「オリジナル編成」とか「オリジナル楽器」とかって一体なんなのか、あらためて考えちゃうような再現でありましたとさ。

いずみシンフォニエッタの「オモロい現代音楽」、なぁるほどベートーヴェンは現代音楽だ、なんてことは言うつもりはないけど、とってもオモロかったことは事実でありまする。遙々訪れた価値ありの神武天皇記念日でありました。ライブ映像配信、必見です。

プロパガンダ・アートを見物する理想的な環境とは [現代音楽]

これを「現代音楽」とするとショスタコーヴィチなんかも全部入っちゃうんだけど、ま、一応、このカテゴリーにしておきましょうか。

暦の上でも春になった如月、既に1週間を過ぎ、着々と春が近付いている今日この頃、春と言えば税金の季節でありまして、今週はひとつ某誌に提案していた原稿をやるかやらないか判断待ちだったのだが、どうもボツになったようなので、それに予定していた時間をば日本国民の神聖なる義務、納税作業に充てることにするべぇか。ってなわけで、領収書広げてもぶんちょうくんたちがどっかに運んで行ってしまわない葛飾オフィス厄偏舎に籠もって作業をしようとするわけだが、まあ毎度ながらどうにも追い込まれないとやる気が起きない作業でありまして、蜜柑下さいって顔して柿の木からこっちをずーっと眺めてるひよちゃんとにらめっこしながらぼーっとしてるわけでありまする。ホント、こんな早くから手を付けようとするとまるでやる気が出ないなんて、日本国民として恥ずかしいぞ、あたしっ!

そんなわけで、まずは膨大な領収書の仕分けでありまする。こういう単純作業にはBGMが必要と、まずは朝からNMLに入ってたラトル指揮の《ロジェ王》を全部聴き、さあ午後からはどうしましょう、そうそうちゃんと勉強しておかないと、と赤くでっかいボックスを収納棚から取り出し、パカッと開けてがらがらの中に入ってるディスク2枚、1枚は音だけのCDで、もうひとつがDVD、そー、かの文化大革命時代に上演が許されていた数少ない西洋オーケストラによるバレエ《紅色娘子軍》を見物しながらやるべぇか。で、天安門マークで始まる映像をちょっと眺め出すも、ダメだ、映像付きでは領収書分類仕事が出来ぬわい。

というわけで、そこにあるCDを単にトレイに突っ込むのもつまらぬので、まさかと思ってNMLを調べてみたら、なんとなんと、バレエ全曲録音が2種類の違った演奏で収録されております(ぶっちゃけ、上海バレエ管弦楽団って団体が弾いてる短い版の録音の方が全然じょーずです)。流石、実質上20世紀に君臨していた世界のメイジャーレーベルを全てぶっつぶしてしまった中国パワー、香港資本のナクソスだけあるぞ!

なんでそんな妙てけれんなものを聴くのじゃ、と訝しくお思いになる方もいらっしゃるでありましょうが、なんのことはない、この作品の鑑賞こそが、来週頭から2週間程日本列島を離れる短いツアーのメインイベントなのでありまする。はい。

昨年の暮れにオーストラリアはメルボルンで《リング》見物に行った際、年明けの春節頃から「アジア芸術フェスティバル」が開催されると宣伝が出ていて、そのメインの演目のひとつが北京のプロダクションによる《紅色娘子軍》オーケストラ伴奏による全曲舞台上演なのでありました。おおおお、これは観たい、みたい、ながめてみたああああい!

ご存知の方はご存知のこの作品、人民解放軍の制服を着たバレリーナがライフル抱えて踊りまわるというイメージ、一頃は文化大革命を象徴するアイコンとして盛んに用いられたことはある世代以上ならご記憶にあるでありましょう。
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有無を言わせぬ堂々たる恥も外聞も無いプロパガンダ芸術の20世紀後半に於けるひとつの典型でありまする。海南島で国民党と繋がる悪い地主に虐められた娘が、赤軍と出会い、己の個人的な怒りや恨みではなく中国人民解放に向けてみんなで力を合わせよう、と高い意識に目覚め、人民解放軍に娘子軍を結成し悪い地主をやっつける、というステキなお話でありまする。クライマックスでは《インターナショナル》の断片がフルオーケストラで高鳴ったりしてさ。ピアノ協奏曲《黄河》と並び、人民中国初期の音楽芸術作品ウルトラ著名作の双璧のひとつでありまする。

ふううう…

ま、この舞台、歴史の文脈を越えて生き残り、今でもスタンダードとして中国では上演されている。中国のバレエ業界とすれば、《白鳥の湖》やら《胡桃割人形》やら《ジゼル》みたいなもの…なのかしらね。ともかく、今でも作品としてしっかり生きていて、国慶節の頃には北京の国家大劇院で上演されたりしている。

なにより有名なのが、訪中したニクソン大統領とパット夫人が見物に連れて行かれ、その様子がジョン・アダムスの《中国のニクソン》に使われていること。ホント言えば、やくぺん先生の関心はそっちからです。あの妙に盛り上がるバレエのシーンは、果たしてどれくらいがアダムスの創作なのか、あのオペラを作るにあたりセラーズはこのバレエのオリジナルをどれくらい意識していたのか…以前から気になって仕方なかった。まさか、あの盛り上がりはオリジナルまんまなんじゃなかんべーね、ってさ。

今回、メルボルンに来るのは、現在北京で上演されている「21世紀初頭の最もオーセンティックなプロダクション」みたいでありまする。
https://www.asiatopa.com.au/events/the-red-detachment-of-women
オケは国家大劇院管弦楽団じゃなくて、メルボルンの地元オケらしいけど。おいおい、この前は《リング》弾いてた奴らが、こんどは19世紀後半の国民楽派バレエの超本気のパロディみたいな楽譜かいね。せっかくだから、映像。こんなん。完全に「戦闘美少女の精神分析」の世界でんなぁ、いまどきの秋葉原で流したらミリタリー・オタや兵器美少女キャラ化マニアさんが熱狂しそう。

んで、そんなもん、見物するならわざわざメルボルンなんて行かなくても北京まで2時間半のフライトで済むでしょうに、って思うでしょうねぇ。

だけどね、こういう「プロパガンダ・アート」ってのは、鑑賞するのは案外と面倒なんですよ。国慶節の北京で、正に本場物の上演を眺めるのがいちばん良い、というものでもないかもしれぬ。無論、いちどくらいはそういう経験をするのは意味があるだろうけど、作品を受け取る側の空気やらを眺めるのが目的ならばそうあるべきだが、あくまでも純粋に「舞台芸術作品」として見物しようとすると、いろいろとフィルターが架かってしまう可能性がある。それなら、そんなものが一切ありようがない異国での引っ越し公演、観る側も何を期待しているわけでもなく、ことによるとなーんの予備知識も予見もない観客の中に紛れて見物する方が、よっぽど気も楽であります。

そう考えると、このメルボルン公演、案外とないチャンスなのかもしれないぞ。

ってなわけで、当初は1月にヒューストンでロベルト・スパノという超立派な棒で上演される《中国のニクソン》も見物し、その勢いでメルボルンに乗り込んでやろうじゃないか。さらには3月頭にロスフィル定期演奏会で作曲者の指揮で演奏会形式上演されるのも眺めてやるか、なーんて考えたのだが、ま、結局、計画はどんどん萎んで、なんとかメルボルンだけは眺めておこう、ということになった次第。

本場物であるからこそ、本場では眺めない方が良いものもある。ショスタコはロシアのオケよりアメリカのオケの方が良く判る、なんて意見もないわけではないですし。そんなもんです。

さても、その前に、少しでも税金作業を処理しましょうか。ぐぁんばれ、あたしっ!にっくき…誰をやっつけるんじゃ?

西村朗弦楽四重奏曲第5番について作者が語ったこと [現代音楽]

本日、NPO法人エクプロジェクトとしての最も重要な仕事のひとつ、「ラボ・エクセルシオ」のもう10数回目となる演奏会が行われましたです。会場は東京オペラシティの近江音楽堂。晴海で始まり、やはり客席700越のホールではいかな東京とはいえ集客が難しいと浅草から大川端を越えた天樹の手前、アサヒビールの黄金の×××ビルに移ったものの、会場そのものがなくなってしまい、今回、遙か内藤新宿の向こうまで移転してきた、というすっかり流浪の企画でありまする。ここが定住の地になるのやら。

メインにバルトークを据え、いまどきの世界のトレンド作品と、日本人作曲家作品を取り上げるという、まあ集客から考えたら絶対に許されないような企画。もっとうんと尖った作品を並べればもの凄くコアなマニア層が楽譜抱いて来るだろうが、敢えてそれはやらないのはNPOエクプロらしいところだなぁ。

さても、本日の公演、エクの演奏だけではなく、作曲家西村氏がご自身で弦楽四重奏曲第5番について語られる、というのが大事なポイントのひとつでありました。
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なんせこの曲、日本では2年くらい前に草津でアルディッティが日本初演して録音はしたものの、まだディスクとしては出て来ていない。総譜は出版されているもののパート譜はレンタルだから、どこかで誰かが演奏しようとすれば(総譜買って来て手書きでパートを起こす、なんて手間をかけていればともかく)、作曲者のところまで判る筈。だけど、西村氏曰く、この作品に関してはアルディッティが何度かやっている意外は知らない、とのこと。

問題は、この曲が来たる5月18日(だったと思います、ことによると17日だったかなぁ)に開催される大阪国際室内楽コンクール第1部門3次予選の課題曲になっている、ということ。この大会に参加を予定する世界の10程の若い団体とすれば、金さえあればなんとしても今日の午後の新宿まで来ないわけにはいかん、ってわけでありまするわ。コンクールの規定で西村さんは審査の権限はないので、まあぶっちゃけ、西村さんがこの曲の演奏のポイント、解釈のポイントなどについて何をどこで語り、誰がそれを聞こうが、なーんの問題もないわけですよ。

で、やっぱり、近江楽堂にそんな極めて特殊な聴衆もいらっしゃいましたです。まだ参加団体発表前なのでどことは言えませんが。

ま、たかが10分ちょっとのお話と、しっかり西村さん立ち会いで練習したエクの演奏を楽譜広げながら聴くことでどれだけ試合に有利になるか判らぬし、そもそも3次予選まで到達しないと話にならんというところもあるわけですから、まあそういうもんだということなんでしょう。そんなわけで、余り演奏解釈やら演奏方法に直接触れない、西村トークで出て来た話を記憶をもとに「西村語録」を記しておきます。自分の為のメモでんな。なお、テープから起こしているわけではないので極めて不正確、そのまま「作曲家がこう言っていた」と引用しちゃダメです。なんせ「書いてあることはみんな嘘、信じるなぁ」をモットーとする私設電子壁新聞なんですからねっ!

★これが第5番で、今、初夏に来日するアルディッティQが東京と大阪で初演するために第6番を書いている。いやぁ、やっぱり6番というのは意識します。なんせ、今日はエクがバルトークの5番と私の5番、来日するアルディッティはバルトークの6番と私の6番、というプログラム(笑)。もうプレッシャーかけまくられです。

★前の比較的長い第4番は弦楽四重奏による交響詩みたいなもので、この第5番もはっきりプログラムがあります。1,2番は抽象的で、3番でちょっと変わって、4,5番がはっきりプログラムがある。で、6番を書くのに躊躇して(笑)5.5番と呼んでいるエクが初演してくれた作品があり、次の6番ではまた抽象的な音楽になっている。

★実は、1番の前にも弦楽四重奏があるんです。大学時代で、0番。その前にも中学生の頃に書いた00番もあって、これは未完成。ブルックナーみたいでしょ(笑)。

★この曲では弦楽器でしかやれない微妙な音程の違いをやってますので、そこを聴いていただければ。

なるほどねぇ、やっぱり作曲家にとってバルトークの6曲というのは大きな壁、越えられない壁になってるんだなぁ、ということがよーくわかるお話でありました。

ま、こんな情報なら演奏がどうこうなるもんではないでしょ。これ以上知りたい方は、5月18日をお楽しみに。ストリーミングもあるでよぉ。

ゲンダイオンガクの真冬 [現代音楽]

節分の頃って、関東平野が一年でいちばん寒くなる頃という気がしているのだけど、なんだか今日は風はあるものの妙にウラウラしているなぁ、と思う2月3日なのであった。

んで、今、都内某所で西村朗氏がエクとの弦楽四重奏第5番立ち会い練習があり、プレトークをするということもあり、見物させていただきました。ま、それがどんなもんだったかの前に、つらつら考えるに…今週になって聴いているものといえば所謂「ゲンダイオンガク」ばかりだなぁ。

まずは札幌から必至で戻って来た理由の、メシアン御大最後の大作《彼方の閃光》でありまする。この作品、まあ、もうFacebookではある方への書き込みという形で書いちゃったから言っちゃえば、これまで正直なところ「作者最晩年の創作力の衰えをハッキリ示してしまっている失敗作」だと思ってました。だってさ、誰が聴いたって判ることだけど、良くも悪くも「素材をゴロゴロ並べてあるだけ」と言われても否定のしようなない作品。そもそもメシアンってそうじゃないか、と酷いことを言えばばそれまでだが、やっぱり若くて創作力に溢れていた頃は強引に纏めるパワーが溢れていたわけですわな。譜面の勢いに任せて最後まで持って行けば光彩陸離たる神の光が見える、って。

ところがこの作品は、そーゆーもんじゃない。それを、それなりに納得いく風に聴かせて頂けたのだから、演奏する人を選ぶ作品なのであるなぁ、じゃあ「人を選ぶ」ってどういうことなのかしら…なーんていろいろ考えさせられた。ま、考えるだけで結論なんて出てないわけだが。カンブルラン先生、《アッシジの聖フランチェスコ》追いかけてマドリッド行ったりしたときに御世話になりましたっけ
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2011-07-05
あれ以来の本領発揮、ありがとう御座いましたです。

んでもって、昨日2月2日は久しぶりにでかけた日本現代音楽協会の「アンデパンダン展」でありました。
http://www.jscm.net/
このイベント、その題名からもお判りのように、年齢性別問わず協会に加盟する作曲家さんが基本譜面ノーチェックで作品を持ち込み、演奏する、というもの。無論、長さや会場、楽器の制約はあるものの、作曲コンクールなどとは違い、ホントに何が出て来るか判らない。正直、知り合いの作曲家さんや演奏家さんがいないとなかなか聴きに来る機会はないイベントなんだけど、今回は関西在住の近藤浩平氏の作品をライブで聴くべく参った次第。

作曲家さんがたには失礼極まりないとは思うのですが、このイベントのおおきな楽しみ(?)のひとつは、やっぱり「作曲家が書いているプログラムノートと、実際に聴こえてくる音の関係」にあるですよ。短いながら作曲家さんが書いていることが、「ああ、なるほどね」ともの凄く納得する作品もあれば、「何言ってるかぜんぜんわからんへん」というのもある。良し悪しじゃなくて、その違いがなかなか面白いであります。

ただ、やっぱり、手堅く作品として纏められるタイプの作曲家さんと、バッタンバッタンやってる感じの方がいるのはどんな「アート展示」とも同じ。その辺りのキャラの差も、これだけ並ぶといろいろあって興味深い。

近藤さんの作品は、決して「上手く纏めました」というもんではなく、笛という楽器の所謂譜面に書いてある音程じゃないところをどう音として拾っていくかがなかなか面白い音楽でありました。「笛だぞー」って吹いちゃうタイプの作品ではない、ってこと。作品数が多い方なのだけど、決して「かっちりまとめました」って感じにならないのは、創作者として信用出来るところでありまする。

んでもて本日、午前中から荒川放水路の畔辺りまでノコノコ出かけたエクと西村さんの練習。いやぁ、これはもうスゴく面白かったです。
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これが初演の時の駄文
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-08-26
…と思ったら、本篇は「アッコルド」に書いてたんだなぁ。スイマセン、アクセス出来なくて。

なんせこの草津での世界初演のときに曲の録音はされているのだけど、まだ世に出ていないそうな。音として聴いたのはあれ以来まる2年半振り。初めて楽譜をちゃんと眺めながら聴かせていただいたのですが、超傑作第2番に比べると随分と大人しくなったかな、なんて印象とはまるで違いました。
確かに形はちょっと面倒くさく、特に最後が「盛り上がってどっかーん」と終わるわけじゃないので地味に聴こえるけど、真ん中にはホケトゥスの部分があって、所謂「西村節」の盛り上がりはきっちりあります。いちばん面白かったのは、最後の「不老不死の薬を飲んで妙な気持ちになってくる」ところ。音程が猛烈に微妙で、ちょっと聴くと「おおおおい、ぴっちわるいよぉ」とクァルテットの皆さんにいいたくなるようなとこなんだが、これははっきりと意図したものなんですわ。明後日の本番、近江楽堂の響き過ぎる空間でどーなんじゃろかと思ってたんだけど、この部分に限れば微妙な音程と微妙な倍音の絡みが、えもいえぬ気持ち悪さ(としか言いようがない)を醸し出してくれることでありましょう。

てなわけで、現代音楽週間、まだまだ続く。皆様、日曜日は近江楽堂へどうぞ。

ジョン・アダムス弦楽四重奏曲第2番日本初演決定 [現代音楽]

カテゴリー横断ネタですなぁ。

来る4月24日、今や関東地方の「弦楽四重奏のメッカ」としての名声を不動のものにしつつある鶴見サルビアホールで、ジョン・アダムスの弦楽四重奏曲第2番が日本初演されます。先程、主催者の方から確定という情報を得ましたので、記しますです。

演奏するのは、そー、言わずと知れた我らがアタッカQでありまする。っても、この曲もどうやら当面のところ演奏許可を有しているのはセント・ローレンスQとアタッカQだけみたいなんで、セント・ローレンスQがまるっきり来日などありそうもない現状に於いては、今回聴かないと次にいつ聴けるか判らぬ状況でありましょうぞっ。

曲に関しては、いまどきのメイジャー作曲家ですから、ちゃんと自前のwebサイトでガッツリ解説まで用意してありますし、さわりながら音もありますので、こちらからどうぞ。
https://www.earbox.com/second-quartet/
それにしても、この写真、そう言われなかったら絶対にセント・ローレンスQとは思えないわなぁ。ファーストは不良オヤジっぽさがますます増してるけど(昨年の夏にバンフでご一緒してましたけど、ライブの方がもっとうんと不良オヤジっぽいです!)。

なお、アタッカQの4月下旬の公演、メイン、というわけではないけど、数があるのは開催危ぶまれた311の年に彼らが優勝した大阪国際室内楽コンクールの第9回大会を前にした関西地区でのアウトリーチなど地域活動なので、恐らく、ジョン・アダムス作品がきちんと聴けるのは鶴見だけであろうとのこと。もしかしたら関西ではアウトリーチで一部楽章などやるかもしれないけど、ギリギリまで判らないわなぁ。

てなわけで、とにもかくにも、ご関心の向きは鶴見に入って下さい。よろしく。

[追記]

N響の来シーズンのプログラムが発表され、なんと、《Absolute Jest》が日本初演されます。
http://www.nhkso.or.jp/contents/wp-content/uploads/2017/01/2017-18season_program.pdf
2018年1月末、残念ながらNHKホールです。サントリーだったら1回券が買えないから、良かったという考えもあろうが、それにしてもちょっとねぇ。指揮がウンジャンで、セント・ローレンスQを連れてくるわけですな。うううん、アタッカQはいろいろ売り込んでたんだけど、やっぱり指揮者がソリスト連れてきちゃうのが一番強いわなぁ。残念だなぁ。

世界で最も客が入る20世紀後半の管弦楽曲は… [現代音楽]

天皇誕生日の善き日、観光客とクリスマス飾り溢れかえる京都まで日帰りし、京都市交響楽団創立60周年記念演奏会を拝聴してまいりましたです。一応、短いとはいえ商売もん原稿もあるので、そっちには書けないやくたいないことを記すであります。

目出度いオーケストラの還暦演奏会、それも日本ではほぼ唯一の完全官立オーケストラとして始まり、余り話題にはならないけどストやったり、いろんな存続の危機があったりした団体。この数年は広上氏を首席指揮者に迎え、今や日本でいちばん元気があって集客力のあるオーケストラになった瞬間のお祝いですから、これはもうさぞや派手な、それこそマーラーの8番とか合唱付き新作委嘱初演とかで祝うのであろー…と思うのがわしら凡人の考えること。無論、誰もが期待するマーラーの8番は3月にしっかりやってくださるのだけど、敢えて「60周年記念演奏会」と高らかに題名を掲げてやるのが、なんとまぁ、シュトックハウゼンの《グルッペン》だというのだから、なんてこった。流石、と素直に驚嘆すべきか、誰がどうやって騙したんだ、と別の意味で驚嘆すべきか。
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結論から言えば、言い出しっぺは3人の指揮者陣を担う客演指揮者のマエストロ下野だそうで、それにいかにもやりたそうなもうひとりの客演指揮者のマエストロ髙関が大喜びで乗って、首席指揮者のマエストロは「ぐるっぺん、ってなんじゃ」だったそうです(会場で司会者さんがいて、マエストロそれぞれにちょっと話を聞いたときに仰ってたこと)。ま、その辺りは某月刊誌の本篇原稿を眺めていただくとして(余りにも短いので触れられない可能性高し、だけどさ)、ホントにどーでも良い感想を。

まずなによりも、おおっぴらにいうべきこととしては、これまた驚くべき事にこの演奏会が目出度くも実質満員御礼になった、という事実であります。改装なったロームシアター京都の向かいのみやこメッセという、天井は普通のコンヴェンションセンター展示室のように低いけど、長方形のひろおおい空間が会場ですので、客席数なんであってなきが如きもの。何人の客が入ったか知らないが(しまった、訊ねてこなかった!)、恐らくは1000人以上、普通のコンサートホールひとつくらいはしっかり入っていたことでありましょう。それに、曲の造りからいって前の方の3つのオーケストラに囲まれるところがいちばん良い席なわけで、そこめがけてパイプ椅子をLCCか中国のぱっちもん新幹線かってくらい思いっきりぎゅう詰めにしていた。なんであれ、その客席がほぼいっぱいになっている。全席自由なんで、会場前から聴衆がこんな風に並んでました。
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ちなみに、会場のタッパはこのロビーと同じですから、いかに天井の低いところでやったかがお判りでしょ。内部の写真は、ゴメン、出せないのですわ。

なお、《グルッペン》は間にケージの《五群オーケストラのための33の小品》挟んで2度演奏されたんだけど、NHK京都のアナウンサーさんという司会者のおねーさんがケージの後に強制的に客を一度排除し、別の席に座り直しなさい、ということをなさいました。数年前にサントリーでやったときもそうだったけど、この曲は席を変えて複数回聴くというのが、どうも日本での定番になりつつあるようですな。で、やくぺん先生はオケを全部等距離にするくらいの真ん中よりちょっと後ろくらいのど真ん中でGPを見物させていただき、1度目の本番は出来るだけ真ん中の第2オケに近い前寄りの真ん中辺り(とはいえ、大行列でど真ん中は取れませんでした)、2度目はいちばん後ろの真ん中で聴かせていただきましたです。

ええ、演奏そのものは、オーケストラの配置、会場の在り方など、過去にやくぺん先生が経験した多くはない回数のこの作品の実演の中では、最も理想に近い再現だったと思うです。マエストロ下野曰く、マデルナやらロスバウとやらブーレーズが初演した60年前の会場よりもちょっと広いそうですが、ともかくこの作品、響きすぎるいまどきのちゃんとしたコンサートホールでは無理、ということはよーく判りましたです。

でも、当然、そうなると「三群オーケストラ」というメインテーマとはまた別の、極めて常識的な意味でのバランスがやたらと難しくなる。アンプリファイされたギターなどの音量はどうあるべきか、そもそも指揮者3人が聴衆の方を向いているという「30人編成くらいの打楽器がいっぱい入ったアンバランスなオーケストラをサントリーのPブロックみたいなところで聴いている」というおかしな状況で打楽器がカバーしてしまうに決まってる弦楽器をどう聴かせるのか、もう訳が判らぬカオス状態。マエストロ下野は個人的な立ち話で「この曲にも正しいバランスはあります」と断言なさってましたので、恐らくはマエストロがGPで音チェックをしていた場所の辺りで聴けば、その理想に近い響きになっていたのでしょう。正直、2度目の、いちばん後ろの席で聴いたときは、弦楽器のソロなど、殆ど聴こえませんでした。難しいなぁ。まあ、そういう「よくきこえないよ」というのも含めた曲なんだろうけど。

…なーんて一応は表のお話っぽいことは、まあこんなもの。ケージとシュトックハウゼンの「創作」の考え方がこんなに違うのかねぇ、とか、いろいろネタはあるけど、ま、それはそれ。で、当電子壁新聞で論じたいのは、どーでもいいけど、実はいちばんどーでもよくはない話。「なんでこの曲は客が入るのか?」ということ。

《グルッペン》という作品、これだけの規模の音楽ですから、アマオケや学生オケが出版社のUEさんに言わずにこそこそやってしまうのは流石に不可能でありましょう。演奏歴はきっちり把握されている筈で、最近のものを知りたければ、ここにいけば簡単に判る。
http://www.karlheinzstockhausen.org/Auffuhrungen_Performances_english.htm
シュトックハウゼン教の聖地たる、御大の公式ホームページの作品上演リストであります。ちなみに《グルッペン》のページはこちらで、ここで基本的なことは全部判るようになってます。
http://www.karlheinzstockhausen.org/gruppen_german.htm

で、上の上演リストを眺めればお判りのように、2016年には《グルッペン》はパリ、モスクワ、プラハ、京都と4回演奏されている。どこかのオーケストラなり主催者なりがこの曲を持って世界ツアーをやってるわけじゃあなく、それぞれが全く別のプロジェクトとして関係なくやられている。これって、60年前の前衛最盛期に書かれた110人の演奏者を必要とする純粋器楽曲としては、「もの凄く頻繁に上演されている」と言っても良いんじゃあないかしら。そりゃ、《トゥランガリラ交響曲》には及ばないかもしれないけど、これだけ特殊な編成でセッティングだけでも頭が痛くなりそうな曲が世界で3ヶ月に1度はやられてるというのは、とてつもないことでしょーに。

なによりスゴいのは、モスクワとプラハがどうだったかは判らないのだけど、やくぺん先生が直接知る限り、経験したどの演奏会も満員なんですわ。それどころか、1月のパリ・フィルハーモニーでの演奏は、もう数ヶ月前から完売札止めで、ホールのスタッフやパリ音楽院の方に手を回しても切符が1枚も出てこない状況。結局、プレスチケットも出ず、聴くのは諦めねばならなかった。その前に聴いたマンハッタンのNYPの特別演奏会も満員札止め。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2012-06-30
その前に、サントリーの夏の現代音楽祭でやったときも、まさかと思ったけど売り切れ満員御礼当日券ありません、でしたし。

うううん、これは一体、どういうことなんでしょうかねぇ。

興味深いのは、サントリーははっきりと「現代音楽フェスティバル」だし、パリもシュトックハウゼン・ウィークみたいな中での開催だったけれど、マンハッタンも今回の京都も、「ゲンダイオンガク」を全面に出した演奏会ではなかったこと。そして、当然ながらなのか、幸いにもなのか、聴衆も「ゲンダイオンガク」専門客ではなかった、という事実なのであります。とりわけ今回の京都は、聴衆の殆どが「昔から京響を聴きに来ているご隠居サラリーマンご夫妻」みたいな方だった。シュトックハウゼンだから、《グルッペン》だから、という客は、遙々東京くんだりからやってきた業界関係者や現代音楽関係者数十人と、関西のそういう固定客せいぜいが百数十人くらいでありましょう。要は、この演奏を聴いた人の7割くらいは、普段は「シュトックハウゼン」やら「ゲンダイオンガク」やらとは無縁に幸せに生きていらっしゃるまともな方々であったのでありまする。

こういう人達に「なんだかしらんけど、スゴい」と思わせられたのか?一部ドイツ語圏の方々はベートーヴェン並に偉いと信じていらっしゃるシュトックハウゼン御大がホントにエラいのか、勝負の日でもあったのですわ。

で、シュトックハウゼン御大は、これららの京の街場の人々をひれ伏させることが出来たのか…うううん、ぶっちゃけ、判りません。ただ、もの凄く長い拍手が続いていたことは事実であります。

「《グルッペン》は何故客が入るのか?」どなたか、本気で論じていただけませんかね。余りにいろんな要素がありそうで、アホなやくぺん先生には到底手に余りますです。

さても、次はいつ聴けるのかなぁ。

[追記]
28日朝の追記です。ええ、京都市交響楽団60周年記念イベントの最後の目玉、3月末のマーラーの8番は、昨日チケット発売と同時に2公演即完売になったそうです。今回の《グルッペン》も、そういう京響を愛する地元聴衆のパワーがあってこその実質満席、なのかもしれませんねぇ。愛されてるなぁ、京響。やっぱりオケは一都市にひとつに限る!←京フィルの方に叱られそうな発言じゃ…

作曲家薮田翔一の夕べ [現代音楽]

地獄の「出張おとうさんの空の深夜バス」午前1時前羽田発ANAフランクフルト行きのパツパツなエコノミークラスで寝たり寝なかったりしながらシベリアを横断、午前5時過ぎにマイン川沿いのヨーロッパのいつものターミナル駅に到着。まだ真っ暗な中を慌てて乗り換えて、亜細亜・北米・豪州各地から朝っぱらに到着した働くオジサンらをこれまたパツパツに詰め込んだちっちゃなカナディアン・リジョナル・ジェットで小雨のジュネーヴ空港に到着したのが午前8時過ぎ。なんだか、「さああ働けぇ!」って時間だなぁ。

少し寝たとはいえ音楽を聴くには最悪の時差でぼけなす海胆頭を抱えて、とにもかくにもこれからジュネーヴ音楽院ホールに向かいます。本日から開幕する第71回ジュネーヴ国際コンクールのオープニング演奏会で、かつてこの大会の弦楽四重奏部門で3位入賞したガラテアQも登場、披露なさるのは、クルタークとライマン、それに薮田翔一…って、現代音楽演奏会じゃあないの、これじゃ。ま、ライマンは知る人ぞ知るシューマン歌曲作品103の弦楽四重奏と歌編曲だから、お許し下さいな。

この大会については、参加者がきっちり発表になる明日以降に記しますが、今話題にするのは、作曲家の薮田翔一氏の作品でありまする。今日これから演奏されるのは、歌曲が2つと、それに弦楽四重奏のための《Billow》。後者は、作曲部門もあるこの大会(だから、その辺含め、明日以降に説明するですうう)で昨年優勝した譜面だそうな。こちら。
http://shoichi-yabuta.jp/event/geneva/
んで、この曲がそのまま今年の弦楽四重奏部門の課題曲にもなるという、なかなか賢い連携のさせ方をしてるわけですな。つまり、オープニングコンサートで昨年の優勝曲をやり、それが今年のお手本演奏になる、ということ。聴衆とすれば、来週の水曜日と木曜日にゴッソリ聴く前に、一度、初演団体で勉強しておくことが出来るわけで、有り難い限り。弾く連中は今日の客席にいるのかな?

さても、そろそろ会場に出かけねば。どんなもんだったか、また戻って来たら。ことによると「ノーコメント」かもね。作曲家さんは来ていないようなので、当人をつかまえて、というわけにはいかぬです。ま、いまどきはガッツリ公式のホームページがあり、曲についてはなんのかんの本人が仰ってるので、それでいいんだけどさ。
http://shoichi-yabuta.jp/

それにしても、作曲にもしっかり「コンクール」があって、30代始めくらいまでの若い人達が一生懸命作品を提出するんだよねぇ。そういう中から生き残っていく曲があるのか、そういえば西村朗の最初の弦楽四重奏って、なんかのコンクールで賞を獲っていたような。

※※※

てなわけで、見物して戻ってまいりました。作曲者御本人、いらしてました。左端のイケメンくん。
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《Billow》なる曲は、前作に引き続き、という感じの短いフレーズというか断片が受け渡され西村ケチャっぽく盛り上がる前半と、グリッサンドとフラジオを使った息の長い旋律を歌い合う静かな後半が対比される曲。この作家さんの最大の美点と思える「がっつりゲンダイオンガクっぽい響きの音楽やってるんだけど、始めて聴いても今が全体の中でどういう部分なのかちゃんと判る」という、聴衆置いてきぼりにしない判りやすさというか、サービス精神に溢れていて、なかなか好感が持てましたです。

作曲者さんに拠れば、スコアはもうすぐ全音から出版されるそうで、パート譜はレンタルだそうです。つまり、ちゃんとやれる曲、ってこと。

なお、前回の声楽部門で優勝したソプラノさんが歌った《風神・雷神》なる曲ともう1曲は、なんとなんとヴォカリーズで、これまた使えそうな曲でした。ピアノがそれこそ風神の巻き起こす大風と、雷神の雷を描写するような鍵盤の隅から隅までガンガン鳴らす伴奏付けて、そっちも大受けでんがな。

御本人にも立ち話で言ったのだけど、いまどき旋律をしっかり書こうとするとか(お姉さんが歌手さんだそうです)、作曲家にしか判らぬ作曲技法にマニアックに突っ込んだもんとは違う、聴衆を意識しつつも言いたいことを言えるバランスの良さは、映画音楽とか舞台音楽で出て来る方なんじゃないかなぁ。20年後に大河ドラマのテーマ音楽やってるかもよ。若い貧乏な映画作家さんで、作曲家探してる人には、覚えておいても良い名前だと思うです。

いやぁ、ちゃんと才能というのは出て来るもんだ。作曲家コンクールって、これまで余りに業界過ぎて近寄りたくなかったのだけど、こうやって才能を次のコンクールで使うなんてやり方があるのなら、面白いかもねぇ。勉強になります、何事も。