「創造的な劇場」に必要なのは [劇場法]
大川チャリチャリ渡って、銀座堀、ってか、首都高が流れる掘り割りの袂の東劇まで行って、METの「ラインの黄金」映画を見物して参りました。木曜の晩、ま、パラパラよりは入っているかな、ってくらい。
ピーター・ゲルブがメトの総裁に就任して大々的に展開し始めたこの「オペラの舞台を劇場のでっかい画面で視せる」って新商品、想像以上に上手くいっているようで、ヨーロッパやアメリカ大陸の田舎では、映画館に正装の婆ちゃんたちがやってくる現象も起きているとか。勿論、影響力が大きければネガティブな反応も出るわけで、ちょっと前のアーツジャーナルだかで眺めた記事に拠れば、クリーブランド・オペラはこの数シーズンに見るも無惨な客離れが起きてて、その理由のひとつがこのMETライヴ・ビューイングと分析しているとのこと。「何を観たいですか」というアンケートで上位に来た作品をシーズンに出したら全然客が入らない。どうやら、「このまえ、MET映画でやってたやつが観たい」ってことらしい、つまり、ローカル・オペラカンパニーの聴衆が「マンハッタンに行ってあの豪華な舞台が観たいわぁ」って思うようになっただけじゃないの、ってこと。なんなんじゃい。
もとい。んで、東京は銀座でもメトの新演出が観られるわけで、距離的にだってマンハッタン厄編庵からメトまでと佃厄偏庵から東劇までは良い勝負。じゃあ、見物してやろーかね、と出かけたわけであります。3500円也の木戸銭、今時なら43ドルくらいってことかい。やくぺん先生のMET御用達天井桟敷オケピット覗き舞台奥は全然観えません席は25ドルだから(来月のラトル指揮「ペレアスとメリザンド」も、しっかり真上から見物して参ります)、それよりは全然高いぞ。うん。ま、2月の「中国のニクソン」は、珍しくも120ドルもする席を確保し、更に太っ腹に15ドルもドーネーションしちゃったけどさ。なんせ金満円高日本国民だもんね!
もといもとい。んで、鳴り物入りで始まった新演出「ラインの黄金」でありますが…ま、想像通り、映画版で眺めてしまうと、かのカラヤンがウォルト・ディズニー・プロダクションと一緒に作り始め「ラインの黄金」だけで終わってしまった映画版が頭をよぎって仕方ない、ってのが本音です。
舞台で接すれば、「おおおお、現代のテクノロジーでここまでト書き通りに舞台上に指輪世界を創り上げられるのかぁ!」と感動ものなんでしょうけど、映像パッケージになっちゃうと、妙に中途半端な感も免れぬわなぁ。ここまでやるなら映像処理でラインの乙女たち吊ってるロープを消しちゃいましょうよ、とか、あんなに頑張ってローゲが燃えてる風に見せてるならCGでガンガンに燃やしましょうよ、とかさ。
なんだか妙に病み上がりっぽいテンポのレヴァイン御大の棒っぷり、一部世代にはハインツ・ツェドニク系の性格テノールじゃないと納得いかないローゲをどう評価するか、等々、劇場を出た瞬間にはいろいろ言いたいこともあるものの、ま、冷静になればあれはあれでしょ。そんなことよりもなによりも印象深かったのは、基本は絶賛のロベール・ルパージュの演出。ってよりも、装置&仕掛けです。先頃上海で4日ぶっ通しで見物したカーセンの仕事を「演出」というならば、ルパージュのやってることは「演出」じゃあありません。いかにト書きを再現するか、だけです。否定的な表現じゃあありませんので、誤解なきよう。世界中からお上りさんが見物に来て、世界中に映像で売ることが使命のメトとすれば、誠にもって真っ当なやり方だと思います。
演劇の世界の方はどうだか知らないけど、音楽に関心のある日本国民がルパージュに初めて出会ったのは、1999年夏の松本での「ファウストの劫罰」だったことでしょう。小生も、あのときは「グランドオペラ」に裏方を取材する連載をしていて、字幕操作の取材で松本に行き、客席じゃなくて舞台上手横の上の方にある字幕操作室からGPだか本番だかを見物しました。で、いやあああああこれはこれは、とビックリしたものでした。
その後、あの演出は共同新演出だったパリのオペラ座に移されて上演され大評判になり、どういう経緯かしらないけどメトが買い上げて改定上演し、NYのメディアに大評判になった。その結果、あのオットー・シェンクのウルトラコンサバの「リング」をメトがいよいよ終わらせ、21世紀前半くらいは使い続けられる「リング」新演出を出すのに大抜擢されたわけですな。
ですから、小生などからすれば、「ああああ、ルパージュって、あの松本で出て来た人ね」って感じなんですわ。
同じようなことは、松本のフェスティバル最初の年に出た「オイディプス王」でも言える。あの頭にアルカイックな仮面などをくっつけた演出は、「日本でもこんなワールドスタンダードなオペラ演出が作れるんだ」と腰を抜かしたものでした。あの演出をやったジュリー・ティモアは、その後に同じコンセプトで「ライオン・キング」を出して高く評価され、あのやり方は一種のスタンダードになった。
あの「オイディプス王」の舞台そのものは、セットはパリ・オペラ座の倉庫にあるという話は聞いたことがあるが、その後上演があるのかは寡聞にして存じません。でもDVDパッケージとしては、マニア向けのインディーズではなく、メイジャー・レーベルから発売されて、それこそ世界中のどこでも売ってる。日本発のオペラ舞台で最も広く世界中で眺められているものでしょう。
こうしてみると、日本のメイジャーオペラっていう意味では、松本のフェスティバルはホントの意味で「世界にパッケージとして輸出して稼ぐことが出来る」ものを作った実績がある、ってこと。新国立劇場も二期会も、セロ年代の後半くらいから「●●劇場との共同制作」という言い方でいろんなオペラ新演出を出しているけど、正直、どれも予算の半分をこっちがもった、みたいなものばかりで、ホントに初台で作って、外国の劇場に持ち出して稼いだ、というものは皆無なんじゃないかしら。強いて言えば、初台「リング」がコヴェントガーデンのチクルスの雛形になってるくらいかな(結果的にコヴェントガーデンの方が劣化版だった、なんてオチもあるらしいけど)。
別に松本は偉いぞ、流石にピーター・ゲルブが立ち上げに関わっただけあるぞ、と絶賛したいのではなくて…平田オリザ参与が仰る「世界に売れるパッケージを作り出せる劇場」を日本にもジャンジャンつくらねばならないというのならば、正しく松本のフェスティバルこそは日本でも数少ないそんな「創造的劇場」になっちゃう。実際、一昨年に松本で作った「雌狐」を、小生はたまたま昨年にフィレンツェでも眺める機会があったのですが、フィレンツェと松本の舞台はまるっきり同じで、なんだか不思議な気持ちがしたものです。
あれが「創造的な劇場」のあり方なんだとしたら、それを可能としているものはある特定の地域に結びついた舞台機構と、劇団員と、スタッフであるとはとても思えない。世界というマーケットで事を動かせるプロデューサーと、何人かの現場関係者さえいれば、どこでも「創造的な劇場」は作れちゃう、って証拠じゃないのかしら。別に劇場法なんぞ作って拠点形成をしようがしまいが、やれるところはやれちゃうし、やれないところは何をしてもダメなんじゃないのかしら。
例えば昨日ご紹介した韓国国立オペラ団(所謂ヨーロッパの国立歌劇場アンサンブルみたいなあり方ではありません、国からの予算を他の団体に比べるといっぱい貰ってるオペラ団、ってこと)の「ルル」だって、ドイツの若い演出家さんを呼んできて、ソウルで新しく作ってるわけです。正に「創造的な劇場」です。感じとしては、ドイツの地方劇場と組んで新演出を作ってる沼尻時代になってからのびわ湖なんかと同じですね。先頃のびわ湖の「トリスタン」は、ホントにドイツの田舎の劇場の新プロダクション、って手触りだったもんなぁ。
要は、劇場法的な仕組みを作らなくても、ちゃんとしたプロデューサーさえいれば「創造的な劇場」は出来るんじゃないかしら、ってこと。それこそがプロデューサーの仕事のような気がするんだけど。
以上、神々が七色に光り輝く橋を渡ってヴァルハラに入場していく映像を眺めながら、間抜け頭でボーッと妄想していたことでありました。極めてえーかげんな議論ですので、細部を突っ込んで考えないで下さいな。オシマイ。
もとい。んで、東京は銀座でもメトの新演出が観られるわけで、距離的にだってマンハッタン厄編庵からメトまでと佃厄偏庵から東劇までは良い勝負。じゃあ、見物してやろーかね、と出かけたわけであります。3500円也の木戸銭、今時なら43ドルくらいってことかい。やくぺん先生のMET御用達天井桟敷オケピット覗き舞台奥は全然観えません席は25ドルだから(来月のラトル指揮「ペレアスとメリザンド」も、しっかり真上から見物して参ります)、それよりは全然高いぞ。うん。ま、2月の「中国のニクソン」は、珍しくも120ドルもする席を確保し、更に太っ腹に15ドルもドーネーションしちゃったけどさ。なんせ金満円高日本国民だもんね!
もといもとい。んで、鳴り物入りで始まった新演出「ラインの黄金」でありますが…ま、想像通り、映画版で眺めてしまうと、かのカラヤンがウォルト・ディズニー・プロダクションと一緒に作り始め「ラインの黄金」だけで終わってしまった映画版が頭をよぎって仕方ない、ってのが本音です。
舞台で接すれば、「おおおお、現代のテクノロジーでここまでト書き通りに舞台上に指輪世界を創り上げられるのかぁ!」と感動ものなんでしょうけど、映像パッケージになっちゃうと、妙に中途半端な感も免れぬわなぁ。ここまでやるなら映像処理でラインの乙女たち吊ってるロープを消しちゃいましょうよ、とか、あんなに頑張ってローゲが燃えてる風に見せてるならCGでガンガンに燃やしましょうよ、とかさ。
なんだか妙に病み上がりっぽいテンポのレヴァイン御大の棒っぷり、一部世代にはハインツ・ツェドニク系の性格テノールじゃないと納得いかないローゲをどう評価するか、等々、劇場を出た瞬間にはいろいろ言いたいこともあるものの、ま、冷静になればあれはあれでしょ。そんなことよりもなによりも印象深かったのは、基本は絶賛のロベール・ルパージュの演出。ってよりも、装置&仕掛けです。先頃上海で4日ぶっ通しで見物したカーセンの仕事を「演出」というならば、ルパージュのやってることは「演出」じゃあありません。いかにト書きを再現するか、だけです。否定的な表現じゃあありませんので、誤解なきよう。世界中からお上りさんが見物に来て、世界中に映像で売ることが使命のメトとすれば、誠にもって真っ当なやり方だと思います。
演劇の世界の方はどうだか知らないけど、音楽に関心のある日本国民がルパージュに初めて出会ったのは、1999年夏の松本での「ファウストの劫罰」だったことでしょう。小生も、あのときは「グランドオペラ」に裏方を取材する連載をしていて、字幕操作の取材で松本に行き、客席じゃなくて舞台上手横の上の方にある字幕操作室からGPだか本番だかを見物しました。で、いやあああああこれはこれは、とビックリしたものでした。
その後、あの演出は共同新演出だったパリのオペラ座に移されて上演され大評判になり、どういう経緯かしらないけどメトが買い上げて改定上演し、NYのメディアに大評判になった。その結果、あのオットー・シェンクのウルトラコンサバの「リング」をメトがいよいよ終わらせ、21世紀前半くらいは使い続けられる「リング」新演出を出すのに大抜擢されたわけですな。
ですから、小生などからすれば、「ああああ、ルパージュって、あの松本で出て来た人ね」って感じなんですわ。
同じようなことは、松本のフェスティバル最初の年に出た「オイディプス王」でも言える。あの頭にアルカイックな仮面などをくっつけた演出は、「日本でもこんなワールドスタンダードなオペラ演出が作れるんだ」と腰を抜かしたものでした。あの演出をやったジュリー・ティモアは、その後に同じコンセプトで「ライオン・キング」を出して高く評価され、あのやり方は一種のスタンダードになった。
あの「オイディプス王」の舞台そのものは、セットはパリ・オペラ座の倉庫にあるという話は聞いたことがあるが、その後上演があるのかは寡聞にして存じません。でもDVDパッケージとしては、マニア向けのインディーズではなく、メイジャー・レーベルから発売されて、それこそ世界中のどこでも売ってる。日本発のオペラ舞台で最も広く世界中で眺められているものでしょう。
こうしてみると、日本のメイジャーオペラっていう意味では、松本のフェスティバルはホントの意味で「世界にパッケージとして輸出して稼ぐことが出来る」ものを作った実績がある、ってこと。新国立劇場も二期会も、セロ年代の後半くらいから「●●劇場との共同制作」という言い方でいろんなオペラ新演出を出しているけど、正直、どれも予算の半分をこっちがもった、みたいなものばかりで、ホントに初台で作って、外国の劇場に持ち出して稼いだ、というものは皆無なんじゃないかしら。強いて言えば、初台「リング」がコヴェントガーデンのチクルスの雛形になってるくらいかな(結果的にコヴェントガーデンの方が劣化版だった、なんてオチもあるらしいけど)。
別に松本は偉いぞ、流石にピーター・ゲルブが立ち上げに関わっただけあるぞ、と絶賛したいのではなくて…平田オリザ参与が仰る「世界に売れるパッケージを作り出せる劇場」を日本にもジャンジャンつくらねばならないというのならば、正しく松本のフェスティバルこそは日本でも数少ないそんな「創造的劇場」になっちゃう。実際、一昨年に松本で作った「雌狐」を、小生はたまたま昨年にフィレンツェでも眺める機会があったのですが、フィレンツェと松本の舞台はまるっきり同じで、なんだか不思議な気持ちがしたものです。
あれが「創造的な劇場」のあり方なんだとしたら、それを可能としているものはある特定の地域に結びついた舞台機構と、劇団員と、スタッフであるとはとても思えない。世界というマーケットで事を動かせるプロデューサーと、何人かの現場関係者さえいれば、どこでも「創造的な劇場」は作れちゃう、って証拠じゃないのかしら。別に劇場法なんぞ作って拠点形成をしようがしまいが、やれるところはやれちゃうし、やれないところは何をしてもダメなんじゃないのかしら。
例えば昨日ご紹介した韓国国立オペラ団(所謂ヨーロッパの国立歌劇場アンサンブルみたいなあり方ではありません、国からの予算を他の団体に比べるといっぱい貰ってるオペラ団、ってこと)の「ルル」だって、ドイツの若い演出家さんを呼んできて、ソウルで新しく作ってるわけです。正に「創造的な劇場」です。感じとしては、ドイツの地方劇場と組んで新演出を作ってる沼尻時代になってからのびわ湖なんかと同じですね。先頃のびわ湖の「トリスタン」は、ホントにドイツの田舎の劇場の新プロダクション、って手触りだったもんなぁ。
要は、劇場法的な仕組みを作らなくても、ちゃんとしたプロデューサーさえいれば「創造的な劇場」は出来るんじゃないかしら、ってこと。それこそがプロデューサーの仕事のような気がするんだけど。
以上、神々が七色に光り輝く橋を渡ってヴァルハラに入場していく映像を眺めながら、間抜け頭でボーッと妄想していたことでありました。極めてえーかげんな議論ですので、細部を突っ込んで考えないで下さいな。オシマイ。
吹田メイシアター開館記念パネルディスカッション「関西の芸術文化の行く先は?」4割くらい速記 [劇場法]
遅くなりました。地獄のデータ作成作業をやっと終え、ヘバヘバで何も出来ない状態。ともかく、去る10月23日吹田メイシアターでのシンポジウムの後半、パネルディスカッション部分、根性の入ってない速記です。この続き。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2010-10-24
せっかくだから、メイシアターの写真。駅の側からじゃなくて、裏手になる西側からアプローチしたところ。意図的に寂しそうな絵面を狙ってるんじゃぁありません!

ぶっちゃけた話、かなりの部分が「吹田メイシアターまんせー!関西まんせー!東京なんてなんぼのもんじゃい!」という内容で、所詮は田舎者が集まって仮住まいしてるおっきな田舎のTOKIOに向かってそんなに敵愾心をむき出しにされてもなぁ、と東京湾岸住民の東のバーバリアンたるやくぺん先生は怯んでしまうですよ。
今世紀初めから佃月島晴海地域に住み込み、地域文化NPOのスタッフから介護ボランティアのパワフルレディ、西仲通り商店街の煎餅屋や弁当屋のオバチャン、はたまた町会の愛すべき長老らの姿なんぞを現地で眺める羽目になった身としては、東京という場所でローカルな「足が地に着いたブンカ」をやるのがいかに困難か、つくづく思っているわけでありまして、大阪の皆さんには「東京なんて、相手にして怒るに値する場所じゃありませんから」って言いたいんですけどねぇ。
ま、それはそれ。そんなわけで、途中で速記の腕があちこち休んでしまい、かなりボロボロ。今、久しぶりに読み返してみても、なんだか判らぬ部分がいっぱいあります。
基本的には平田内閣参与の劇場法に向けての考えが垣間見える部分を中心に拾います。あんまり中身には期待しないよーに。なお、途中から文体が変わってるのは、語尾まで拾うのが面倒になってきたからで、他意はありません。
なーんの参考にもならないかもしれませんけど、一応、貼りつけます。これで当面の関西シリーズはオシマイ。某雑誌の大阪センチュリー鼎談も、昨晩(ってか、今朝の午前2時くらいに)、無事に赤入れが終わり、今月の18日発売の誌面に掲載される筈です。
毎度ながらの発言ですが、以下はあくまでも「4割くらいのえーかげんな速記」ですので、まんま引用したりしないで下さい。なんかあって、今後はこのようなことが出来なくなったら困るですからね。
金森重裕(大阪文化団体連合会事務局長):メイシアターについて皆さんからひとこと。
桂米團治:(略)このホールは吹田の駅前、歩いて1分。だけど、周りに店屋がなにもないのは20年間かわっていません。吹田に行くと、メイシアター以外、なにもない。会館にレストランがあるが、9時がラストオーダーです。なにかイベントをした後どこで一杯飲むかというと、十三、梅田にいく。結局ここは通過点なの、と思っています。メイシアターは素晴らしい立地条件なのだが、街造りは市民が誇れるような環境をつくることが必要。用事が無くてもフラッとくるような環境になるかが、この10年間の分岐点だと思います。
平田オリザ:1年に4分の1はフランスの劇場で働いていますが、フランスでは終演後にカフェで午前1時頃まで喋るものです。もうひとつ、先程の基調演説で最後にいったように、発信、創造型が課題になっていくと思います。日本はGDPで比べると文化予算は極端に低い。タリバン政権がバーミヤン遺跡を壊したのを世界中から非難されました。世界人類の財産だからです。日本政府は世界中で極端に文化予算が低い。文化政策は遺産を保護し、保存し、発展して継承させることにあります。保存だけしていたら必ず廃れます。日本の文化予算は保護は出来ているが、発展継承させていません。日本政府だけは創造活動していないのです。普通にやると東京一極集中になってしまう。科学技術は全国の大学が競って基礎科学を発展させようとしています。大阪からも世界水準の作品を生み出していかなければいけないのに、それが出来るホールが大阪市内にありません。市民の人たちのホールが最優先だが、そのバランスをどう取っていくか。最終的には市民が誇れるホールにどうしていくか。
藤岡幸夫:僕と関西フィルはメイシアターにはお世話になっていて、七夕と12月に第9を演奏しています。合唱団は始めて5,6年、第9の合唱団を関西一にしたいと本気で付き合っていて、人数は関西一になっています。夢を見させて貰っている。周りにお茶を飲むところはないけれど、駅がこれだけ近いのは集客に大事です。大ホールは極めて音響が良い。シベリウスを録音したときにホールを無償で貸して貰いました。このような付き合いが出来ているのは有り難い。関西フィルと付き合い始めて11年になる。毎年40回から50回やってる。世界中でも珍しいほどの数。どうしてかというと、オーケストラと指揮者は敵味方なので、20回を越えるとイヤなところが見えてくるのです。でも本当の個性派とことん付き合って判る、個性が出てくると思っています。関西フィルの前はイギリスで15、6年住んだが、そのときに思ったのは、ヨーロッパに行って直ぐ思ったのは、日本の素晴らしさ。その一方でおかしいと思うのは、東京への一極集中。東京のオーケストラに助成が沢山行っているように見える。あらゆる意味で東京が優遇されているように見える。こんなに東京集中が続いている日本は、発展途上国である。関西フィルと出会い、関西で仕事が出来るのは天命と思い、やって来た。地方の劇場文化の素晴らしいお考えを聞かせていただいて、これからの日本は、東京以外の人たちにどれだけ裾野を広げるかが勝負。ただでさえ遠いと思われるクラシック音楽をどれだけ近くするか。なんの知識もない人が、自分の町のホールにオーケストラが来た時に来てくれる人をどれだけ増やすか。演劇の地声の抑揚で客席に伝わるもので、落語も同じ。普段、身近に趣味としてないとしても、身近にリピーターとなってくれるライブを体験してくれる人を増やすこと。(略、同じ指揮者とオーケストラの組み合わせで何度も呼んでくれるのは関西だけである、など)小林事務局長が「今に判る、東京は田舎者の街。値段が高いものが良い、本気で応援しない、関西の方が文化度が高いよ、東京は情報量が多い。でも文化は関西。」という。文化の中心は関西。そのためには経済的にも。地元の企業が地元に根付いていれば、もっと発展する。関西フィルに全てをかけるので、よろしく。
(以下、関西及びメイシアターについての話、省略)
平田:富士見市で5年やった。30分で池袋にいけるから、ホントはいらなかったかもしれない。でも、出来ちゃったんで、交流事業に力を入れようということで、全ての公演に付帯事業を付けた。昼間の開いている時間帯を無料に貸して交流事業をさせた。市民に愛される交流施設を目指した。誇りになって貰うために国際交流事業をやった。先週、フランス演出家と富士見市民でパーフォーマンスを作った。メリハリ。吹田の地の利を生かして創造事業を。日本のアーティストは個別で負けるとは思わないが、劇場のプロデュース能力と劇場の教育システム。グローバルなマーケットは、劇場が作って売っている。新国立劇場の問題点。劇場のレパートリーにして買い取ってもらえない。音楽でも、企画コンサートを他の地域、国外に売って回せる。パッケージを作っていく。(以下、新国立劇場批判など、省略)
平田:日本では劇場の支援会員制度が発達していないが、アメリカでは会員が席まで決まり、相続の対象にまでなっている。だから劇場が街の社交場になる。それくらい時間を掛けて社交場を作っていく。その席の行けないチケットは、地元の若いアーティストの招待にする。そういう会員制度が充実すると、芸術監督が推薦するものなら観る、という風になる。そうなると、つまらないものでも納得してくれる。
(以下、吹田でこの3人でなにかやりたいという話が、桂と藤岡で盛り上がる。省略)
金森:芸術文化がなくてはならないものだと多くの人が認識して欲しいが、政治をする人に文化の大事さを知って貰いたい。なくてはならないものだということを、言葉でヒントをいただきたい。
平田:言葉では難しい。芸術監督になったとき、市に頼んで、市議会議員にワークショップした。地域と車座集会して理解して貰った。教育委員、小中学校の先生にワークショップした。客席で愉しむだけではなく、効果があると言ってまわった。行政関係、教職員のワークショップを地道にやること。
藤岡:確かに興味のない人に言葉でいうのは難しい。行政や企業の人に実際に聴いて貰うのが一番大切である。この10年間、初めての街とかでは地元の吹奏楽団とオーケストラの共演をする。学校のオーケストラをまわってコンサートの前に指導する。地道なことはありとあらゆることをしている。オーケストラの中で聴いて貰うチャンスをつくる。いろいろやっていくことが大切。それだけ裾野が広がれば、サポートしてくれる人に来て貰う。それをやってきた。
桂:参加するのは非常に良い。それはどんどんすべきだが、学生ばっかりが集まっていると、白けてしまう。学校公演はなくすべきである。やるなら保護者同伴。周りの保護者が笑うから、これは面白いと思うのである。子供らは考えることをしなくなった。5分辛抱することが出来ない時代になったので、その子供らを舞台に振り向かせるのは、高齢者の協力がいる。バブルの頃から客席がシーンとしている。今は高齢者の元気が日本に必要。本当の舞台芸術はこういうものだ、ということを教えて欲しい。
金森:子供の無表情はどうすれば。
平田:昔からの体育館で座らせて鑑賞させるのは時代に沿わない。観るのはこれだけ立派な劇場があるので、観るのは劇場に来て貰い、鑑賞教育の場なので、学校単位で一般観客と一緒に観て貰うのが大事。コミュニケーション教育が演劇ダンス、プロの実演家が入っていくというのが始まっている。そういう授業が始まっているので、感動を失った子供に、今の時代に、感動の質が違ってきている子供らがやっぱり生は面白いと思ってくれる仕掛けを工夫しなければいけない。
金森:実際に体験する場が大事、それを沢山持つのが大事。文化審議会の答申を見ていると言葉は良い物があり、記憶にあるのは、「文化芸術を体験することで、他の人を思いやる気持ちが育まれる」という言葉。
平田:コミュニケーション教育が異文化理解。オーストラリアとカナダで盛ん、市民を育てるために。演劇は役割分担がし易い。スポーツと芸術は多民族社会には重要。今後、研究者が増えてくる。優秀な研究者に阪大が来て貰うために、吹田が国際的な感覚を持った持ちになって貰わないと大学も衰退する。大学が吹田に協力するのは当然。芸術文化を使って国際都市にするのは大事。
(以下、質疑応答3件ほど、終わったのは9時10分くらいで、確かに会場を出たら周囲に飲みに行く場所のひとつもありませんでしたとさ。)
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2010-10-24
せっかくだから、メイシアターの写真。駅の側からじゃなくて、裏手になる西側からアプローチしたところ。意図的に寂しそうな絵面を狙ってるんじゃぁありません!
ぶっちゃけた話、かなりの部分が「吹田メイシアターまんせー!関西まんせー!東京なんてなんぼのもんじゃい!」という内容で、所詮は田舎者が集まって仮住まいしてるおっきな田舎のTOKIOに向かってそんなに敵愾心をむき出しにされてもなぁ、と東京湾岸住民の東のバーバリアンたるやくぺん先生は怯んでしまうですよ。
今世紀初めから佃月島晴海地域に住み込み、地域文化NPOのスタッフから介護ボランティアのパワフルレディ、西仲通り商店街の煎餅屋や弁当屋のオバチャン、はたまた町会の愛すべき長老らの姿なんぞを現地で眺める羽目になった身としては、東京という場所でローカルな「足が地に着いたブンカ」をやるのがいかに困難か、つくづく思っているわけでありまして、大阪の皆さんには「東京なんて、相手にして怒るに値する場所じゃありませんから」って言いたいんですけどねぇ。
ま、それはそれ。そんなわけで、途中で速記の腕があちこち休んでしまい、かなりボロボロ。今、久しぶりに読み返してみても、なんだか判らぬ部分がいっぱいあります。
基本的には平田内閣参与の劇場法に向けての考えが垣間見える部分を中心に拾います。あんまり中身には期待しないよーに。なお、途中から文体が変わってるのは、語尾まで拾うのが面倒になってきたからで、他意はありません。
なーんの参考にもならないかもしれませんけど、一応、貼りつけます。これで当面の関西シリーズはオシマイ。某雑誌の大阪センチュリー鼎談も、昨晩(ってか、今朝の午前2時くらいに)、無事に赤入れが終わり、今月の18日発売の誌面に掲載される筈です。
毎度ながらの発言ですが、以下はあくまでも「4割くらいのえーかげんな速記」ですので、まんま引用したりしないで下さい。なんかあって、今後はこのようなことが出来なくなったら困るですからね。
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吹田市政施行70年記念シンポジウム
パネルディスカッション「関西の芸術文化の行く先は?」
桂米團治:(略)このホールは吹田の駅前、歩いて1分。だけど、周りに店屋がなにもないのは20年間かわっていません。吹田に行くと、メイシアター以外、なにもない。会館にレストランがあるが、9時がラストオーダーです。なにかイベントをした後どこで一杯飲むかというと、十三、梅田にいく。結局ここは通過点なの、と思っています。メイシアターは素晴らしい立地条件なのだが、街造りは市民が誇れるような環境をつくることが必要。用事が無くてもフラッとくるような環境になるかが、この10年間の分岐点だと思います。
平田オリザ:1年に4分の1はフランスの劇場で働いていますが、フランスでは終演後にカフェで午前1時頃まで喋るものです。もうひとつ、先程の基調演説で最後にいったように、発信、創造型が課題になっていくと思います。日本はGDPで比べると文化予算は極端に低い。タリバン政権がバーミヤン遺跡を壊したのを世界中から非難されました。世界人類の財産だからです。日本政府は世界中で極端に文化予算が低い。文化政策は遺産を保護し、保存し、発展して継承させることにあります。保存だけしていたら必ず廃れます。日本の文化予算は保護は出来ているが、発展継承させていません。日本政府だけは創造活動していないのです。普通にやると東京一極集中になってしまう。科学技術は全国の大学が競って基礎科学を発展させようとしています。大阪からも世界水準の作品を生み出していかなければいけないのに、それが出来るホールが大阪市内にありません。市民の人たちのホールが最優先だが、そのバランスをどう取っていくか。最終的には市民が誇れるホールにどうしていくか。
藤岡幸夫:僕と関西フィルはメイシアターにはお世話になっていて、七夕と12月に第9を演奏しています。合唱団は始めて5,6年、第9の合唱団を関西一にしたいと本気で付き合っていて、人数は関西一になっています。夢を見させて貰っている。周りにお茶を飲むところはないけれど、駅がこれだけ近いのは集客に大事です。大ホールは極めて音響が良い。シベリウスを録音したときにホールを無償で貸して貰いました。このような付き合いが出来ているのは有り難い。関西フィルと付き合い始めて11年になる。毎年40回から50回やってる。世界中でも珍しいほどの数。どうしてかというと、オーケストラと指揮者は敵味方なので、20回を越えるとイヤなところが見えてくるのです。でも本当の個性派とことん付き合って判る、個性が出てくると思っています。関西フィルの前はイギリスで15、6年住んだが、そのときに思ったのは、ヨーロッパに行って直ぐ思ったのは、日本の素晴らしさ。その一方でおかしいと思うのは、東京への一極集中。東京のオーケストラに助成が沢山行っているように見える。あらゆる意味で東京が優遇されているように見える。こんなに東京集中が続いている日本は、発展途上国である。関西フィルと出会い、関西で仕事が出来るのは天命と思い、やって来た。地方の劇場文化の素晴らしいお考えを聞かせていただいて、これからの日本は、東京以外の人たちにどれだけ裾野を広げるかが勝負。ただでさえ遠いと思われるクラシック音楽をどれだけ近くするか。なんの知識もない人が、自分の町のホールにオーケストラが来た時に来てくれる人をどれだけ増やすか。演劇の地声の抑揚で客席に伝わるもので、落語も同じ。普段、身近に趣味としてないとしても、身近にリピーターとなってくれるライブを体験してくれる人を増やすこと。(略、同じ指揮者とオーケストラの組み合わせで何度も呼んでくれるのは関西だけである、など)小林事務局長が「今に判る、東京は田舎者の街。値段が高いものが良い、本気で応援しない、関西の方が文化度が高いよ、東京は情報量が多い。でも文化は関西。」という。文化の中心は関西。そのためには経済的にも。地元の企業が地元に根付いていれば、もっと発展する。関西フィルに全てをかけるので、よろしく。
(以下、関西及びメイシアターについての話、省略)
平田:富士見市で5年やった。30分で池袋にいけるから、ホントはいらなかったかもしれない。でも、出来ちゃったんで、交流事業に力を入れようということで、全ての公演に付帯事業を付けた。昼間の開いている時間帯を無料に貸して交流事業をさせた。市民に愛される交流施設を目指した。誇りになって貰うために国際交流事業をやった。先週、フランス演出家と富士見市民でパーフォーマンスを作った。メリハリ。吹田の地の利を生かして創造事業を。日本のアーティストは個別で負けるとは思わないが、劇場のプロデュース能力と劇場の教育システム。グローバルなマーケットは、劇場が作って売っている。新国立劇場の問題点。劇場のレパートリーにして買い取ってもらえない。音楽でも、企画コンサートを他の地域、国外に売って回せる。パッケージを作っていく。(以下、新国立劇場批判など、省略)
平田:日本では劇場の支援会員制度が発達していないが、アメリカでは会員が席まで決まり、相続の対象にまでなっている。だから劇場が街の社交場になる。それくらい時間を掛けて社交場を作っていく。その席の行けないチケットは、地元の若いアーティストの招待にする。そういう会員制度が充実すると、芸術監督が推薦するものなら観る、という風になる。そうなると、つまらないものでも納得してくれる。
(以下、吹田でこの3人でなにかやりたいという話が、桂と藤岡で盛り上がる。省略)
金森:芸術文化がなくてはならないものだと多くの人が認識して欲しいが、政治をする人に文化の大事さを知って貰いたい。なくてはならないものだということを、言葉でヒントをいただきたい。
平田:言葉では難しい。芸術監督になったとき、市に頼んで、市議会議員にワークショップした。地域と車座集会して理解して貰った。教育委員、小中学校の先生にワークショップした。客席で愉しむだけではなく、効果があると言ってまわった。行政関係、教職員のワークショップを地道にやること。
藤岡:確かに興味のない人に言葉でいうのは難しい。行政や企業の人に実際に聴いて貰うのが一番大切である。この10年間、初めての街とかでは地元の吹奏楽団とオーケストラの共演をする。学校のオーケストラをまわってコンサートの前に指導する。地道なことはありとあらゆることをしている。オーケストラの中で聴いて貰うチャンスをつくる。いろいろやっていくことが大切。それだけ裾野が広がれば、サポートしてくれる人に来て貰う。それをやってきた。
桂:参加するのは非常に良い。それはどんどんすべきだが、学生ばっかりが集まっていると、白けてしまう。学校公演はなくすべきである。やるなら保護者同伴。周りの保護者が笑うから、これは面白いと思うのである。子供らは考えることをしなくなった。5分辛抱することが出来ない時代になったので、その子供らを舞台に振り向かせるのは、高齢者の協力がいる。バブルの頃から客席がシーンとしている。今は高齢者の元気が日本に必要。本当の舞台芸術はこういうものだ、ということを教えて欲しい。
金森:子供の無表情はどうすれば。
平田:昔からの体育館で座らせて鑑賞させるのは時代に沿わない。観るのはこれだけ立派な劇場があるので、観るのは劇場に来て貰い、鑑賞教育の場なので、学校単位で一般観客と一緒に観て貰うのが大事。コミュニケーション教育が演劇ダンス、プロの実演家が入っていくというのが始まっている。そういう授業が始まっているので、感動を失った子供に、今の時代に、感動の質が違ってきている子供らがやっぱり生は面白いと思ってくれる仕掛けを工夫しなければいけない。
金森:実際に体験する場が大事、それを沢山持つのが大事。文化審議会の答申を見ていると言葉は良い物があり、記憶にあるのは、「文化芸術を体験することで、他の人を思いやる気持ちが育まれる」という言葉。
平田:コミュニケーション教育が異文化理解。オーストラリアとカナダで盛ん、市民を育てるために。演劇は役割分担がし易い。スポーツと芸術は多民族社会には重要。今後、研究者が増えてくる。優秀な研究者に阪大が来て貰うために、吹田が国際的な感覚を持った持ちになって貰わないと大学も衰退する。大学が吹田に協力するのは当然。芸術文化を使って国際都市にするのは大事。
(以下、質疑応答3件ほど、終わったのは9時10分くらいで、確かに会場を出たら周囲に飲みに行く場所のひとつもありませんでしたとさ。)
吹田メイシアター開館記念シンポジウム基調講演「公共劇場の役割と未来」ほぼ速記 [劇場法]
吹田市政施行70年記念シンポジウム、ともかく、平田オリザ講演のほぼ速記です。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2010-10-13
大ホールに聴衆は200人程か(もっといたかも)。どうやら、指揮者の藤岡氏が吹田でやっている第9合唱団員のオバチャマが客席の真ん中を締めていたようである。在阪オケ関係者2名、関西の公共民間ホールの関係者も数名。

冒頭、吹田の文化財団の方が、文化の重要性を阪神淡路大震災後のメイシアターでの実例を挙げてちょっと話す。
続いて、平田オリザ氏が舞台に登場し、実質45分程の基調演説。ご覧のように内容は、「吹田にある大阪大学の先生」としての平田氏が現在文化を巡って起きていることを吹田市民に説明する、というもの。聴衆の対象は、「吹田のオバチャン」である。なるほど平田氏は全国行脚をしてこういう話をしているのかぁ、と感心させられる達者な話であった。
最も重要なのは最後の3分。情操教育は文化政策の仕事ではなく、文化政策は新たなライフラインとコミュニティの創設なのである、と断言した辺りから。つまり、カルチャーオバサン相手に、カルチャーはお飾りではなく必需品である、という理屈をはっきり見せたところ。
持論だった「創作の場所としての劇場を支援する劇場法」議論と、日本の地方文化会館のほぼ全てがそうである吹田のような巨大コミュニティセンター(旧来の情操教育の場所!)とをどう関連させていくかの、平田氏なりの摺り合わせの部分が最も興味深かった。なるほど、全国行脚でこういう風な議論になってきたのね、と思わせてくれた。
後半のパネルディスカッションで彼が持ち出したのは、やっぱり、埼玉県富士見市の例だったのが、平田氏がコミセン型劇場の例として出せるのはやっぱりあそこしないのかなぁ、と個人的にはいろいろ思うところもある(平田氏が富士見市をやってたとき、全然偉くない音楽のディレクターをうちの奥さんがやってて、こんにゃく座の指導で市民オペラを立ち上げたりしたんだけど、当電子壁新聞では意識的にそれら富士見ネタは一切やらなかった)、ま、それはそれ。
てなわけで、具体的な事例は、多少、端折る。毎度ながら、不完全な「ほぼ速記約7割」なので、会場の空気や雰囲気を伝えるためのメモ、決して引用などなさらないように。引用したら出所が判るよう仕掛けはしてあるから、そのおつもりで。
吹田の大阪大学のこと。大阪大学に5年前にコミニュケーション・デザインセンターが出来た。大学院生に実際に演劇やダンス、デザインを経験して貰い、医者、弁護士、科学者の卵にコミュニケーションの基礎力を付けて貰うもの。博士課程に進む人間には数年後には必修に。演劇をやらないと医者になれない時代が来る。それくらい、芸術の力、演劇の力が社会の中で少しづつ認められるのかな、と。
私の考える公共劇場が、社会の中でどのような役割を果たしているか。今日は東京から来て、明日からは延々と日本をあちこちまわることになる。演劇は行ってやらなければならないライブアートである。一年の3分の2を家以外で過ごしているが、日本中の地方都市がシャッター銀座になっている状況は、70年代末のアメリカの風景に非常に似てきたと思う。アメリカが最も落ち込んでいた時代である。中心市街地が危険になり、白人中産階級は郊外で車に乗って買い物して帰ってくるだけ。コミュニティが崩壊していた。日本はそこまでではないが、少しづつスラム化している。
郊外のショッピングセンターの風景はこの2,30年で確立されたものなのである。消費社会が確立した。良いことは、便利になったこと。が、利便性を追求する余り、無くしてしまったものがあるのでは。経済効率から見ると無駄な空間を無くしてしまった。トトロの森、お祭り、神話の伝達、などなど。
具体的には、商店街が寂れると床屋と銭湯がなくなる。浮世風呂、江戸時代以来の街のコミュニティスペースだった場所だ。昔の床屋さんは仕事をしてない奴が将棋を指してた。この叔父さんたちが子供の教育係であり、監視係だった。例えば子供が駄菓子やに行き、1万円出したら、オバチャンは親に注意しただろう。これが「無意識のセーフティネット」で、昔はそういうものがあった。今はコンビニで何を子供が買おうが、だれも気にしない。マニュアル化すると、無駄なものが省かれるが、コミュニケーションとは無駄なところにある。経済優先にするとそれが薄くなる。
青少年の凶悪犯罪が地方都市に広がっているのはなぜか。実は数は増えていないが、地域が広がっている。ひとつは、若者の居場所がカラオケボックスとかに固定化していること。そういうところが溜まり場になる。もうひとつは、成功の道筋がひとつになっていること。都市ではフリースクールなど学校以外の道の選択があり得るが、地方都市ではないので、引きこもり。引きこもりも地方都市の方が深刻である。道筋から外れると、都会なら戻れるが、地方では戻れないのだ。
地方地方というが、地方だけの問題ではない。例えば渋谷。私は駒場で生まれ育った。30年程前までは谷間の小さな街だったが、東急と西武が無理矢理に広げて経済的に繁栄させた。ところが谷底のセンター街は、若者が座りこみ、危険な空気を醸し出す場所になった。どうみてもこの子らの責任じゃないだろう、と思う。資本の理論で広げたので、公園や広場がない。宮下公園はホームレスがたまっていて、今、強制退去している。資本の理論なので、社会的弱者の場所をつくらなかった。が、弱者は経済的な繁栄で集まってくる。でも行くところがないから危険になっていく。最終的にはスラム化していく。このもっと悲惨な例が、東村山での中学生ホームレス撲殺事件。(以下具体例)これらは街造りをしてこなかった社会の問題ではないか。
昔からいじめの問題はあった。でも、昔は原っぱの世界があった。そこでもいじめはあったろうが、学年を越えていたので、子供にとっての重層性を与えていた。今、子供は学校しか社会がないので、逃げるところがない。だから簡単に死んだりする。
だからといって、原っぱを作れば子供は戻ってくるかというと、そういうわけにもいかない。だから、現代社会にあった形で、新しい原っぱ、新しい広場をつくるべきなのである。劇場、音楽ホール、図書館、バスケットボールのコート、フットサル、それらをコミュニティ・スペースとして捉えていく。非日常の空間。経済行為からすれば出会うはずの人があう空間、劇場をそういう場所に作り替えていかなければならない。価値観が多様化しているので、行政がするのは沢山のメニューの用意である。
誰かが誰かを知っている社会を作ること。今までの日本社会は地縁血縁型で、誰もが知っていた。生まれたときからその地域にいた。だが、地域の全部の行事に参加出来るものは息苦しいので、若者は都会に出て行ってしまっていた。データを見ると、ボランティアなどは、車で30分の場所ならば来てくれる。強固な共同体ではなく、誰かが誰かを知っている、という社会をつくる。何かを通じて、誰かが誰かをちょっとづつ知っている社会に日本社会を編み変えるべきなのである。その編み目の接点として、芸術、スポーツ、ボランティア活動が大事なのではないか。
行政は30年とか100年に一度の大災害のために堤防を作ってきた。だが、そこでもうひとつ必要なのは、コミュニティだった。神戸の復興があったのは、小さなコミュニティがあったから。だが、神戸市はコミュニティを寸断し被災者を再配置したため、統計で500人もの孤独死を生んだ。その反省から、中越村では村全体で仮設住宅に入れた。復旧にどれだけコミュニティの力が大事である。だが、今は昔のようなコミュニティは絶対に維持できない。ならば、人間は何で繋がるか。芸術文化で繋がるしかない。吹田市にとって、芸術文化は第2のライフラインなのである。演劇好き、音楽好き、落語好きで繋がっていることで、人間を孤立させないことが、堤防やダムよりも安上がりな防災対策になる。
夢物語を言っているのではない。80年以降、欧米の多くの都市が文化による都市の再興に着手した。中核に文化施設を造り、中国系、ヒスパニック系などが入って来やすいような施設をつくる。その方が街全体のリスクが軽減されるから。ヨーロッパの多くの文化施設で行われているのが、ホームレスプロジェクトである。ホームレスに月に1回とか、シャワーを浴びさせ、コンサートなどに招待する。精神的理由でホームレスになるのだから、芸術に触れることで昔の生きる気力を取り戻させて貰う。炊き出しだけではホームレスは救えない。文化施設は、ホームレスを孤立させない、社会的包摂の接点となる。ヨーロッパのどの文化施設も担っている大きな役割なのだ。高度成長が止まった私たちに必要になってくるものだ。 成長型の社会では半年待っても失業者は職を得られない。大人の引きこもりが始まる。人間を孤立させると、周囲の人の精神的なショックが大きい。失業している人にもなんとかして社会と繋がっていてもらいたい。
例えば私がやっているアゴラ劇場では、雇用保険受給者に大幅にチケットを割引した。これまでは失業者は演劇など観ているときではないとされていたが、その逆である。これからの日本は、その方向に転換しなければいけない。
フランスのナント市が一番成功した例がある。造船業がダメになり、文化によって再生すると宣言する。中心のビスケット工場、遠洋航海時代のかんぱんをつくる工場をアートセンターにする。パリからアーティストに無料で貸した。ラ・フォル・ジュルネを始める。横浜でやったような巨大オブジェのお祭り。今は輸出するまでになり、フランスで老後に住みたい街ナンバーワンである。フランス人は富裕層ほど早くリタイアするから、富裕層がナントに済むようになり、税収が増え、また文化にあてる。街にブランドイメージができ、産業も復活した。ナントでつくる高級クルーザーが売れるようになった。ナント・モデルと言われる成功例。
一方で、大阪病。万博の成功体験のため、外から一発で人を集めるものに関心を持つ。バブル期の花博の成功は、ホントは成功していない。その後は大規模イベントの失敗、オリンピック失敗、サミット承知失敗、酒井陸上、USJの尻すぼみ。逆の例としてディズニーランドの成功。一番ディズニーランドの行くのは浦安市民である。浦安市民はディズニーランドを誇りに思っている。
大阪での成功は、天満天神繁昌亭。天神橋筋商店街。同心円状の集客、市民参加型。天神橋の旦那集が自分らの金でつくった。だが、繁昌亭の動員は1回200人。年間でも年間で十数万人。だが、商店街の通行客は1日に2万五千人を超える。しょうもないイベントをいっぱいやっている。商店街の若い店主が、出入りするようになった落語家の卵などとつるんでいろいろやるようになったから。商店街が寂れる理由は、後継者が未来に希望が持てない。ここは若い奴らが戻ってきた。
(以下、水都大阪2009のワークショップ化による成功と、参加型にしなかった横浜開国博の大失敗の例。金沢21世紀美術館が金沢を再生させた例。富良野の成功と芦別の失敗について。省略)
隣町の富良野と芦別の成功と失敗例から判るのは、自分で考えることが出来ないと、東京資本にあっけなく文化的に収奪されていくということ。文化力によって東京資本は地方を食い物にしていく。文化の自己決定能力、自分らの誇りは何で、そこにどんな付加価値を付ければ外から客が来てくれるかを自分で判断する。文化の自己決定能力を高めていかないと、地方はあっさりと収奪されていく。
芦別の失敗のもうひとつの理由は、他人の金だったこと。旧産炭地は保護法があって、無制限に借金が出来て、政府が保証した。小泉改革でそれを止めたので、借金が返せず、破綻した。文化施設は行政任せではいけない。大阪の繁昌亭は自分らの金田から皆が自分のものと思ってる。これからの文化施設は市民が自腹を切って、寄付をして、支えていくものでなければならない。
まとめです。いままでは芸術文化は好きな人のものだった。劇場というのは、演劇を観にいったり、音楽を聴きにいったりする人が愉しむ場所であった。それは勿論大事なことである。私が関わっている演劇教育や芸術教育も、情操教育と言われ、心を豊かにする、人間性を高めるものだった。それも大事なこと。だが、曖昧なことである。心を豊かに、人間性を高めるのは、他でも出来るのではないか。だが、今日話したように、もやは文化政策は文化施設はなくてはならないものになっていく。人間が人間らしく生きていくためには、私たちがコミュニティを維持していくためには、これまでとは全く違った、学校や病院と並んでなくてはならないものとなっていくだろう。
メイシアターは全国でも突出して稼働率が高い、当初よりコミュニティスペースの役割を目指してきたモデル事業をしていた。しかし今後、今、国会で議論されている劇場法、今度は、創造活動もやりなさい、そういうところには国は手厚く補助しますよ、という法案が出て来ます。勿論、メイシアターはそれもおやりになると思います。そのときに、市民の高達は、メイシアターは稼働率は高く貸し館として優秀だ、さらにものを作る方もやらなければならない。バランスが壊れてきますね。恐らく、その中で、他の地域の館との連携とか、機能分かとか、市内にある公民館とどういう風に役割を分担していくか、今まで以上に戦略的な公共施設の使い方が問われてくるのではないかなと思います。そういったことに、是非、市民の方たちにも感心を持って頂いて、このメイシアターを是非盛り上げていただければ、と思います。大阪大学と吹田市は包括協定を結んでいるので、大阪大学としても今後、一層、吹田市の文化行政に積極的に関わせていただき、お手伝いさせていただければな、と思っています。
これからの公共ホールは、好きな人のものだけではなく、嫌いな人にもなくてはならない施設なものにならねばならない。学校や病院が嫌いでも、そういう場所がなくても良いと思う人はそうとう変わった人である。劇場も、そういうものにならねばならない。その手伝いをさせていただきたいと思っている。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2010-10-13
大ホールに聴衆は200人程か(もっといたかも)。どうやら、指揮者の藤岡氏が吹田でやっている第9合唱団員のオバチャマが客席の真ん中を締めていたようである。在阪オケ関係者2名、関西の公共民間ホールの関係者も数名。
冒頭、吹田の文化財団の方が、文化の重要性を阪神淡路大震災後のメイシアターでの実例を挙げてちょっと話す。
続いて、平田オリザ氏が舞台に登場し、実質45分程の基調演説。ご覧のように内容は、「吹田にある大阪大学の先生」としての平田氏が現在文化を巡って起きていることを吹田市民に説明する、というもの。聴衆の対象は、「吹田のオバチャン」である。なるほど平田氏は全国行脚をしてこういう話をしているのかぁ、と感心させられる達者な話であった。
最も重要なのは最後の3分。情操教育は文化政策の仕事ではなく、文化政策は新たなライフラインとコミュニティの創設なのである、と断言した辺りから。つまり、カルチャーオバサン相手に、カルチャーはお飾りではなく必需品である、という理屈をはっきり見せたところ。
持論だった「創作の場所としての劇場を支援する劇場法」議論と、日本の地方文化会館のほぼ全てがそうである吹田のような巨大コミュニティセンター(旧来の情操教育の場所!)とをどう関連させていくかの、平田氏なりの摺り合わせの部分が最も興味深かった。なるほど、全国行脚でこういう風な議論になってきたのね、と思わせてくれた。
後半のパネルディスカッションで彼が持ち出したのは、やっぱり、埼玉県富士見市の例だったのが、平田氏がコミセン型劇場の例として出せるのはやっぱりあそこしないのかなぁ、と個人的にはいろいろ思うところもある(平田氏が富士見市をやってたとき、全然偉くない音楽のディレクターをうちの奥さんがやってて、こんにゃく座の指導で市民オペラを立ち上げたりしたんだけど、当電子壁新聞では意識的にそれら富士見ネタは一切やらなかった)、ま、それはそれ。
てなわけで、具体的な事例は、多少、端折る。毎度ながら、不完全な「ほぼ速記約7割」なので、会場の空気や雰囲気を伝えるためのメモ、決して引用などなさらないように。引用したら出所が判るよう仕掛けはしてあるから、そのおつもりで。
※※※※※※
基調講演「公共劇場の役割と未来」平田オリザ
吹田の大阪大学のこと。大阪大学に5年前にコミニュケーション・デザインセンターが出来た。大学院生に実際に演劇やダンス、デザインを経験して貰い、医者、弁護士、科学者の卵にコミュニケーションの基礎力を付けて貰うもの。博士課程に進む人間には数年後には必修に。演劇をやらないと医者になれない時代が来る。それくらい、芸術の力、演劇の力が社会の中で少しづつ認められるのかな、と。
私の考える公共劇場が、社会の中でどのような役割を果たしているか。今日は東京から来て、明日からは延々と日本をあちこちまわることになる。演劇は行ってやらなければならないライブアートである。一年の3分の2を家以外で過ごしているが、日本中の地方都市がシャッター銀座になっている状況は、70年代末のアメリカの風景に非常に似てきたと思う。アメリカが最も落ち込んでいた時代である。中心市街地が危険になり、白人中産階級は郊外で車に乗って買い物して帰ってくるだけ。コミュニティが崩壊していた。日本はそこまでではないが、少しづつスラム化している。
郊外のショッピングセンターの風景はこの2,30年で確立されたものなのである。消費社会が確立した。良いことは、便利になったこと。が、利便性を追求する余り、無くしてしまったものがあるのでは。経済効率から見ると無駄な空間を無くしてしまった。トトロの森、お祭り、神話の伝達、などなど。
具体的には、商店街が寂れると床屋と銭湯がなくなる。浮世風呂、江戸時代以来の街のコミュニティスペースだった場所だ。昔の床屋さんは仕事をしてない奴が将棋を指してた。この叔父さんたちが子供の教育係であり、監視係だった。例えば子供が駄菓子やに行き、1万円出したら、オバチャンは親に注意しただろう。これが「無意識のセーフティネット」で、昔はそういうものがあった。今はコンビニで何を子供が買おうが、だれも気にしない。マニュアル化すると、無駄なものが省かれるが、コミュニケーションとは無駄なところにある。経済優先にするとそれが薄くなる。
青少年の凶悪犯罪が地方都市に広がっているのはなぜか。実は数は増えていないが、地域が広がっている。ひとつは、若者の居場所がカラオケボックスとかに固定化していること。そういうところが溜まり場になる。もうひとつは、成功の道筋がひとつになっていること。都市ではフリースクールなど学校以外の道の選択があり得るが、地方都市ではないので、引きこもり。引きこもりも地方都市の方が深刻である。道筋から外れると、都会なら戻れるが、地方では戻れないのだ。
地方地方というが、地方だけの問題ではない。例えば渋谷。私は駒場で生まれ育った。30年程前までは谷間の小さな街だったが、東急と西武が無理矢理に広げて経済的に繁栄させた。ところが谷底のセンター街は、若者が座りこみ、危険な空気を醸し出す場所になった。どうみてもこの子らの責任じゃないだろう、と思う。資本の理論で広げたので、公園や広場がない。宮下公園はホームレスがたまっていて、今、強制退去している。資本の理論なので、社会的弱者の場所をつくらなかった。が、弱者は経済的な繁栄で集まってくる。でも行くところがないから危険になっていく。最終的にはスラム化していく。このもっと悲惨な例が、東村山での中学生ホームレス撲殺事件。(以下具体例)これらは街造りをしてこなかった社会の問題ではないか。
昔からいじめの問題はあった。でも、昔は原っぱの世界があった。そこでもいじめはあったろうが、学年を越えていたので、子供にとっての重層性を与えていた。今、子供は学校しか社会がないので、逃げるところがない。だから簡単に死んだりする。
だからといって、原っぱを作れば子供は戻ってくるかというと、そういうわけにもいかない。だから、現代社会にあった形で、新しい原っぱ、新しい広場をつくるべきなのである。劇場、音楽ホール、図書館、バスケットボールのコート、フットサル、それらをコミュニティ・スペースとして捉えていく。非日常の空間。経済行為からすれば出会うはずの人があう空間、劇場をそういう場所に作り替えていかなければならない。価値観が多様化しているので、行政がするのは沢山のメニューの用意である。
誰かが誰かを知っている社会を作ること。今までの日本社会は地縁血縁型で、誰もが知っていた。生まれたときからその地域にいた。だが、地域の全部の行事に参加出来るものは息苦しいので、若者は都会に出て行ってしまっていた。データを見ると、ボランティアなどは、車で30分の場所ならば来てくれる。強固な共同体ではなく、誰かが誰かを知っている、という社会をつくる。何かを通じて、誰かが誰かをちょっとづつ知っている社会に日本社会を編み変えるべきなのである。その編み目の接点として、芸術、スポーツ、ボランティア活動が大事なのではないか。
行政は30年とか100年に一度の大災害のために堤防を作ってきた。だが、そこでもうひとつ必要なのは、コミュニティだった。神戸の復興があったのは、小さなコミュニティがあったから。だが、神戸市はコミュニティを寸断し被災者を再配置したため、統計で500人もの孤独死を生んだ。その反省から、中越村では村全体で仮設住宅に入れた。復旧にどれだけコミュニティの力が大事である。だが、今は昔のようなコミュニティは絶対に維持できない。ならば、人間は何で繋がるか。芸術文化で繋がるしかない。吹田市にとって、芸術文化は第2のライフラインなのである。演劇好き、音楽好き、落語好きで繋がっていることで、人間を孤立させないことが、堤防やダムよりも安上がりな防災対策になる。
夢物語を言っているのではない。80年以降、欧米の多くの都市が文化による都市の再興に着手した。中核に文化施設を造り、中国系、ヒスパニック系などが入って来やすいような施設をつくる。その方が街全体のリスクが軽減されるから。ヨーロッパの多くの文化施設で行われているのが、ホームレスプロジェクトである。ホームレスに月に1回とか、シャワーを浴びさせ、コンサートなどに招待する。精神的理由でホームレスになるのだから、芸術に触れることで昔の生きる気力を取り戻させて貰う。炊き出しだけではホームレスは救えない。文化施設は、ホームレスを孤立させない、社会的包摂の接点となる。ヨーロッパのどの文化施設も担っている大きな役割なのだ。高度成長が止まった私たちに必要になってくるものだ。 成長型の社会では半年待っても失業者は職を得られない。大人の引きこもりが始まる。人間を孤立させると、周囲の人の精神的なショックが大きい。失業している人にもなんとかして社会と繋がっていてもらいたい。
例えば私がやっているアゴラ劇場では、雇用保険受給者に大幅にチケットを割引した。これまでは失業者は演劇など観ているときではないとされていたが、その逆である。これからの日本は、その方向に転換しなければいけない。
フランスのナント市が一番成功した例がある。造船業がダメになり、文化によって再生すると宣言する。中心のビスケット工場、遠洋航海時代のかんぱんをつくる工場をアートセンターにする。パリからアーティストに無料で貸した。ラ・フォル・ジュルネを始める。横浜でやったような巨大オブジェのお祭り。今は輸出するまでになり、フランスで老後に住みたい街ナンバーワンである。フランス人は富裕層ほど早くリタイアするから、富裕層がナントに済むようになり、税収が増え、また文化にあてる。街にブランドイメージができ、産業も復活した。ナントでつくる高級クルーザーが売れるようになった。ナント・モデルと言われる成功例。
一方で、大阪病。万博の成功体験のため、外から一発で人を集めるものに関心を持つ。バブル期の花博の成功は、ホントは成功していない。その後は大規模イベントの失敗、オリンピック失敗、サミット承知失敗、酒井陸上、USJの尻すぼみ。逆の例としてディズニーランドの成功。一番ディズニーランドの行くのは浦安市民である。浦安市民はディズニーランドを誇りに思っている。
大阪での成功は、天満天神繁昌亭。天神橋筋商店街。同心円状の集客、市民参加型。天神橋の旦那集が自分らの金でつくった。だが、繁昌亭の動員は1回200人。年間でも年間で十数万人。だが、商店街の通行客は1日に2万五千人を超える。しょうもないイベントをいっぱいやっている。商店街の若い店主が、出入りするようになった落語家の卵などとつるんでいろいろやるようになったから。商店街が寂れる理由は、後継者が未来に希望が持てない。ここは若い奴らが戻ってきた。
(以下、水都大阪2009のワークショップ化による成功と、参加型にしなかった横浜開国博の大失敗の例。金沢21世紀美術館が金沢を再生させた例。富良野の成功と芦別の失敗について。省略)
隣町の富良野と芦別の成功と失敗例から判るのは、自分で考えることが出来ないと、東京資本にあっけなく文化的に収奪されていくということ。文化力によって東京資本は地方を食い物にしていく。文化の自己決定能力、自分らの誇りは何で、そこにどんな付加価値を付ければ外から客が来てくれるかを自分で判断する。文化の自己決定能力を高めていかないと、地方はあっさりと収奪されていく。
芦別の失敗のもうひとつの理由は、他人の金だったこと。旧産炭地は保護法があって、無制限に借金が出来て、政府が保証した。小泉改革でそれを止めたので、借金が返せず、破綻した。文化施設は行政任せではいけない。大阪の繁昌亭は自分らの金田から皆が自分のものと思ってる。これからの文化施設は市民が自腹を切って、寄付をして、支えていくものでなければならない。
メイシアターは全国でも突出して稼働率が高い、当初よりコミュニティスペースの役割を目指してきたモデル事業をしていた。しかし今後、今、国会で議論されている劇場法、今度は、創造活動もやりなさい、そういうところには国は手厚く補助しますよ、という法案が出て来ます。勿論、メイシアターはそれもおやりになると思います。そのときに、市民の高達は、メイシアターは稼働率は高く貸し館として優秀だ、さらにものを作る方もやらなければならない。バランスが壊れてきますね。恐らく、その中で、他の地域の館との連携とか、機能分かとか、市内にある公民館とどういう風に役割を分担していくか、今まで以上に戦略的な公共施設の使い方が問われてくるのではないかなと思います。そういったことに、是非、市民の方たちにも感心を持って頂いて、このメイシアターを是非盛り上げていただければ、と思います。大阪大学と吹田市は包括協定を結んでいるので、大阪大学としても今後、一層、吹田市の文化行政に積極的に関わせていただき、お手伝いさせていただければな、と思っています。
これからの公共ホールは、好きな人のものだけではなく、嫌いな人にもなくてはならない施設なものにならねばならない。学校や病院が嫌いでも、そういう場所がなくても良いと思う人はそうとう変わった人である。劇場も、そういうものにならねばならない。その手伝いをさせていただきたいと思っている。
超急告:芸団協集会をニコニコ動画で中継中 [劇場法]
忘れてた。先程午後6時から、芸団協の集まりをニコニコ動画で中継している筈です。もの凄いメンバーが喋ってる筈です。視聴可能な方はご覧あれ。ここから行ってください。
http://twitter.com/mottobunka
やってるのはこういうもの。
http://www.motto-bunka.com/news/20101001.html
参加者はこちら。政治家さんからスターまで、ズラリ、ですな。
[開会]
中野寛成(衆議院議員/音楽議員連盟会長/民主党)
野村萬(社団法人日本芸能実演家団体協議会会長)
[意見交換]
枝野 幸男(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/民主党)
河村 建夫(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/自由民主党)
斉藤 鉄夫(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/公明党)
市田 忠義(参議院議員/音楽議員連盟副会長/共産党)
服部 良一(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/社会民主党)
福島 明夫(社団法人日本劇団協議会専務理事)
仲道 郁代(ピアニスト)
牧 阿佐美(前新国立劇場舞踊芸術監督)
三遊亭 小遊三(社団法人落語芸術協会副会長)
吉井 澄雄(照明家)
石坂 敬一(一般社団法人日本レコード協会会長)
吉本 光宏(文化政策部会委員/ニッセイ基礎研究所)
平田 オリザ(劇作家・演出家/内閣官房参与)ほか
※出席者は都合により変更になる場合もあります。
[進行]
簗瀬 進(音楽議員連盟事務局長)
大和 滋(芸団協 芸能文化振興部部長)
http://twitter.com/mottobunka
やってるのはこういうもの。
http://www.motto-bunka.com/news/20101001.html
参加者はこちら。政治家さんからスターまで、ズラリ、ですな。
[開会]
中野寛成(衆議院議員/音楽議員連盟会長/民主党)
野村萬(社団法人日本芸能実演家団体協議会会長)
[意見交換]
枝野 幸男(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/民主党)
河村 建夫(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/自由民主党)
斉藤 鉄夫(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/公明党)
市田 忠義(参議院議員/音楽議員連盟副会長/共産党)
服部 良一(衆議院議員/音楽議員連盟副会長/社会民主党)
福島 明夫(社団法人日本劇団協議会専務理事)
仲道 郁代(ピアニスト)
牧 阿佐美(前新国立劇場舞踊芸術監督)
三遊亭 小遊三(社団法人落語芸術協会副会長)
吉井 澄雄(照明家)
石坂 敬一(一般社団法人日本レコード協会会長)
吉本 光宏(文化政策部会委員/ニッセイ基礎研究所)
平田 オリザ(劇作家・演出家/内閣官房参与)ほか
※出席者は都合により変更になる場合もあります。
[進行]
簗瀬 進(音楽議員連盟事務局長)
大和 滋(芸団協 芸能文化振興部部長)
仙台では鈴木副大臣が [劇場法]
参議院選が終わって数年間は政治的には安定期となるためか(それじゃ仕事がなくなっちゃう大手マスメディアの政局部、もとい、政治部が、まるで本質的ではないことで騒ぐでしょうけど、商売で騒いでいるだけだとさっさと新聞購読と地上波視聴を止め、一切無視すればよろし!)、政権交代後の本格的な文化政策見直しに向けた様々な啓蒙活動が目立つようになってきました。
昨年来、劇場法に関しては実質上主導権を握り、賛否含めた様々な議論が散々に沸騰している演劇界に比べ、育ちの良さ故か危機感が感じられず、なんともノンビリした動きがもどかしかったクラシック音楽界でも、補助金をなくさないでくれとか、公共ホールの運営費を削らないでくれとか、そんな各論で騒いでもなんにもならぬ事態とやっと気付いたか、ともかく現状を理解しようとする動きが出て来ているようです。
土曜日には吹田で平田オリザ内閣参与が指揮者藤岡氏と対面するシンポジウムがあり、翌日曜日には鈴木副大臣が仙台に乗り込み、こんなシンポジウムに参加します。
http://www.sendaiphil.jp/concerts/1010/symposium_250.html
仙台は、この10年くらいではっきりとソフト先行地区になっていて、いよいよ音楽ホールを造る動きも本格化してきている。そんな中で、鈴木大臣は別に「ペレアスとメリザンド」見物に行くわけでもなかろー。どんな話になるか。
興味深いのは、面子の中にファンドレイジングの専門家がいること。これは案外、このシンポジウムのキモかもねぇ。
てなわけで、あたしゃ大阪にいるんでいけませんが、東北の方、是非とも眺めに行ってみて下さいな。
昨年来、劇場法に関しては実質上主導権を握り、賛否含めた様々な議論が散々に沸騰している演劇界に比べ、育ちの良さ故か危機感が感じられず、なんともノンビリした動きがもどかしかったクラシック音楽界でも、補助金をなくさないでくれとか、公共ホールの運営費を削らないでくれとか、そんな各論で騒いでもなんにもならぬ事態とやっと気付いたか、ともかく現状を理解しようとする動きが出て来ているようです。
土曜日には吹田で平田オリザ内閣参与が指揮者藤岡氏と対面するシンポジウムがあり、翌日曜日には鈴木副大臣が仙台に乗り込み、こんなシンポジウムに参加します。
http://www.sendaiphil.jp/concerts/1010/symposium_250.html
仙台は、この10年くらいではっきりとソフト先行地区になっていて、いよいよ音楽ホールを造る動きも本格化してきている。そんな中で、鈴木大臣は別に「ペレアスとメリザンド」見物に行くわけでもなかろー。どんな話になるか。
興味深いのは、面子の中にファンドレイジングの専門家がいること。これは案外、このシンポジウムのキモかもねぇ。
てなわけで、あたしゃ大阪にいるんでいけませんが、東北の方、是非とも眺めに行ってみて下さいな。
スゴイ顔ぶれのシンポジウム [劇場法]
流石にヘビーなツアーで、ヘバヘバです。昨晩最終ひとつ前の新幹線でずーっと鼎談テープ起こしをやりながら戻ってきて半分しか終わらず、今日も朝から明日が〆切の原稿を前に意識を失ってるような。普通の状態なら難なく今日中に終わるものなのに、前頭葉活動20パーセント以下、って状態。頑張らねばぁ、あたし!
んで、関西方面で拾ったチラシにあった、もの凄いシンポジウムのご案内だけして今日はオシマイ。これ。
http://www.maytheater.jp/series/1010/1023_symposium.html
ちょっとスゴイですねぇ。果たしてホントにこの顔ぶれでパネルディスカッションになるのか、ってか、これじゃあならんだろーに…
せっかくだから引き写しておきますと、以下。敢えて多くは語りません。面子を眺めて、ことの重大さが判る方はお判りでしょう。いよいよ、平田オリザ氏が現役バリバリの指揮者と対決するわけです。もうこれは、VSものとしてはいきなりクライマックスですね。コーディネーターが防衛軍になってメーサー砲ぶっ放しそうだし。いやはや。
てなわけで、あたしゃ、これだけのために、この日は吹田まで行くつもりになってます。流石に深夜バスを使わねばその日には戻って来られないけど、楽天の宿と足つきパックなんか使うつもりなら、初台歌劇宮で血湧き肉躍るイタリア歌劇を最高席で見物するくらいの木戸銭払えばこのバトルが見物できるわけで、そりゃー行くべきでしょ。
なにやら内閣参与氏、今年になってあちこちでこの類の講演をしてまわってる中で賢い人らしく現場の空気を学んだみたいで、聞くところでは「劇場法」の議論の内容をちょっぴり軌道修正してきている気配もあるらしく、コミセン系市民会館も視野に入れたようなことを言い始めているとのこと。果たしてどんなことになるやら。久しぶりに「ほぼ速記」、やったるべーかな。
吹田市制施行70周年・メイシアター開館25周年記念記念シンポジウム
■公演日時 2010年10月23日(土)開演 18:30 開場 18:00
■公演場所 中ホール
■入場料 無料
日本の芸術文化の状況は大きく変わり、官も民も劇場は新たな時代を迎えようとしています。このシンポジウムでは、これからの「劇場」をめぐる芸術文化のあり方を検証していきます。
★基調講演「公共劇場の役割と未来」
平田オリザ(劇作家・演出家、大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、内閣官房参与)
★パネルディスカッション「関西の芸術文化の行く先は?」
パネラー ;桂米團治(落語家) 、平田オリザ 、藤岡幸夫(指揮者)
コーディネーター:金森重裕(大阪文化団体連合会事務局長)
んで、関西方面で拾ったチラシにあった、もの凄いシンポジウムのご案内だけして今日はオシマイ。これ。
http://www.maytheater.jp/series/1010/1023_symposium.html
ちょっとスゴイですねぇ。果たしてホントにこの顔ぶれでパネルディスカッションになるのか、ってか、これじゃあならんだろーに…
せっかくだから引き写しておきますと、以下。敢えて多くは語りません。面子を眺めて、ことの重大さが判る方はお判りでしょう。いよいよ、平田オリザ氏が現役バリバリの指揮者と対決するわけです。もうこれは、VSものとしてはいきなりクライマックスですね。コーディネーターが防衛軍になってメーサー砲ぶっ放しそうだし。いやはや。
てなわけで、あたしゃ、これだけのために、この日は吹田まで行くつもりになってます。流石に深夜バスを使わねばその日には戻って来られないけど、楽天の宿と足つきパックなんか使うつもりなら、初台歌劇宮で血湧き肉躍るイタリア歌劇を最高席で見物するくらいの木戸銭払えばこのバトルが見物できるわけで、そりゃー行くべきでしょ。
なにやら内閣参与氏、今年になってあちこちでこの類の講演をしてまわってる中で賢い人らしく現場の空気を学んだみたいで、聞くところでは「劇場法」の議論の内容をちょっぴり軌道修正してきている気配もあるらしく、コミセン系市民会館も視野に入れたようなことを言い始めているとのこと。果たしてどんなことになるやら。久しぶりに「ほぼ速記」、やったるべーかな。
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吹田市制施行70周年・メイシアター開館25周年記念記念シンポジウム
■公演日時 2010年10月23日(土)開演 18:30 開場 18:00
■公演場所 中ホール
■入場料 無料
日本の芸術文化の状況は大きく変わり、官も民も劇場は新たな時代を迎えようとしています。このシンポジウムでは、これからの「劇場」をめぐる芸術文化のあり方を検証していきます。
★基調講演「公共劇場の役割と未来」
平田オリザ(劇作家・演出家、大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、内閣官房参与)
★パネルディスカッション「関西の芸術文化の行く先は?」
パネラー ;桂米團治(落語家) 、平田オリザ 、藤岡幸夫(指揮者)
コーディネーター:金森重裕(大阪文化団体連合会事務局長)
音楽業界の代表は誰なのか [劇場法]
新しいカテゴリーを立てます。「指定管理者」でも「音楽業界」でも扱いにくいし、話の方向性はハッキリしているので、そのものズバリ、「劇場法」です。「劇場法への道」が正しいのだろうけど、「ご当地五輪への道」カテゴリーで酷い目にあってるのでねぇ。過去の記事を幾つか移動させるべきなんでしょうが、面倒なんで、当面はそっちは放置しておきます。
とはいえ、来週頭までに〆切り3つ、まだテープ起こし終わらず、というオソロシー状態なので、いろいろ面倒な話をしている暇もない。で、些か旧聞に属しますけど、先週来、どっかでちゃんとアップせねばと思っていた「文部科学省コミュニケーション教育推進会議」のメンバーについて。
ええ、この会議は、昨年の政権交代以降、世間様や大手マスメディアがどう思っていようが着実に動いている「日本国の御上による文化政策の基本的な枠組みの設定」作業のひとつです。よーするに、「衆議院で現在の与党が過半数を持っている間に、ともかく劇場法までは通しちゃおう」という流れが具体的に見えている部分。
ものすごおおおおく乱暴に言えば、「老人から子供まで、自分と意見の違う相手に面と向かうと話が出来なくなっちゃう碇シンジ君みたいな日本国民の情けないまでに低いコミュニケーション能力を、コミュニケーションのプロたる芸術家や芸術によって少しはなんとかしようではないか、それこそがブンカの仕事だろーに」ってのが、現政権が当面展開しようとしている文化政策の裏にある基本的な考え方(なんだろーなー、今でも、多分…)。この「コミュニケーション教育推進会議」は、そんな「コミュニケーション教育」を地域で担うソフト&ハードとしての「劇場」に入るコンテンツを議論するわけですから、どんなアホが見ても「劇場法」を睨んでの動きとしか思えぬわけでありますわ。
ちなみに、昨年まで半世紀以上続いた日本国の文化政策の具体策とは、「日本中に東京と同じハードウェアとしての文化施設を設置いたしましょう」というものでありました。敢えて一票の格差を放置し、司法が何度ダメと言おうが地方の票には中央のそれの数倍のハンディを付けた選挙を延々と繰り返した結果、大都市の税収は地方に見事に流れ、結果として少なくともハードウェア面での地方と中央の格差は殆どなくなった。今や都会の人間は、地方の人はいろいろ恵まれてて良いなぁ、とみーんな思ってる。自民党&霞ヶ関の現中国共産党みたいな行政&立法をドロドロに一元化した開発独裁国紙一重のシステムが機能、自民党総裁が参院選前のCFで繰り返してた「イチバンの日本国」が作られてきたことは、皆々様ご存知の通り。
実際、ブンカでもソウル一点集中が問題になってる韓国から日本にアートマネージメントを学びに来ている将来のエリートさんたちは、旧与党&霞ヶ関システムの「地方に厚く分配する」というやり方を真剣に学ぼうとしている程です。これ、ホント。
もとい。長くなってめんどーなんで、あとは先週に行われた部会の様子と、メンバーを以下に貼り付けますので、勝手に見て、いろいろ思って下さいな。このページの動画、まだ見られるのかしら。もう時間切れになってたら、スイマセン。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/commu/1294421.htm
で、こちらのPDFファイルがコミュニケーション教育推進会議メンバーリスト。
推進会議メンバーリスト.pdf
さあああ、音楽関係者の皆様、このリストをどうご覧になるでしょうか。
我々音楽業界の代表は、ぶっちゃけ、2名ですな。音楽系アートマネージメントを代表する我らが楠瀬氏は、津田ホールのプロデューサーというよりも、地域創造の音活コーディネーターをかなり初期から務めているベテラン、という意味なんでしょう(数年前に学校組織の一部になった津田ホールなので、「教育」という意味で他のコーディネーターさんたちよりも適当だろう、ということなのかしら)。
もうお一方は、我が中央区の隣は港区を中心にNYの演奏家によるアウトリーチなどを実践なさっているNPOの代表さんで、ボストンはNECの出身の管楽器奏者さんです。つまり、かつての厄偏庵居候で今は栗東さきらで頑張ってる甲賀のI嬢なんぞが眺めてきたことを、演奏家としていろいろ学んで東京に戻ってきた方、ということなんでしょう。アートマネージメント系というより、役者さんやダンサーさんなどに近いパーフォーマー・メンタリティ、演奏家の代表、ということかしら。偉い指揮者さんなんかが入るよりはよっぽど現場を知っているから、良かったといえましょう。なかなかパワフルな方らしいので、口八丁手八丁の演劇組に混じって異文化間喧嘩やって、音楽業界に何かもぎ取ってくる突破力を期待したいですね。
というわけで、小生も今後は出来るだけ傍聴に行きたいと思っております。選挙がなく周囲の雑音に右往左往することない3年の間にどこまでやれるか、まあ、当面は我々の代表をじっくりと見守っていくとしましょう。
とはいえ、来週頭までに〆切り3つ、まだテープ起こし終わらず、というオソロシー状態なので、いろいろ面倒な話をしている暇もない。で、些か旧聞に属しますけど、先週来、どっかでちゃんとアップせねばと思っていた「文部科学省コミュニケーション教育推進会議」のメンバーについて。
ええ、この会議は、昨年の政権交代以降、世間様や大手マスメディアがどう思っていようが着実に動いている「日本国の御上による文化政策の基本的な枠組みの設定」作業のひとつです。よーするに、「衆議院で現在の与党が過半数を持っている間に、ともかく劇場法までは通しちゃおう」という流れが具体的に見えている部分。
ものすごおおおおく乱暴に言えば、「老人から子供まで、自分と意見の違う相手に面と向かうと話が出来なくなっちゃう碇シンジ君みたいな日本国民の情けないまでに低いコミュニケーション能力を、コミュニケーションのプロたる芸術家や芸術によって少しはなんとかしようではないか、それこそがブンカの仕事だろーに」ってのが、現政権が当面展開しようとしている文化政策の裏にある基本的な考え方(なんだろーなー、今でも、多分…)。この「コミュニケーション教育推進会議」は、そんな「コミュニケーション教育」を地域で担うソフト&ハードとしての「劇場」に入るコンテンツを議論するわけですから、どんなアホが見ても「劇場法」を睨んでの動きとしか思えぬわけでありますわ。
ちなみに、昨年まで半世紀以上続いた日本国の文化政策の具体策とは、「日本中に東京と同じハードウェアとしての文化施設を設置いたしましょう」というものでありました。敢えて一票の格差を放置し、司法が何度ダメと言おうが地方の票には中央のそれの数倍のハンディを付けた選挙を延々と繰り返した結果、大都市の税収は地方に見事に流れ、結果として少なくともハードウェア面での地方と中央の格差は殆どなくなった。今や都会の人間は、地方の人はいろいろ恵まれてて良いなぁ、とみーんな思ってる。自民党&霞ヶ関の現中国共産党みたいな行政&立法をドロドロに一元化した開発独裁国紙一重のシステムが機能、自民党総裁が参院選前のCFで繰り返してた「イチバンの日本国」が作られてきたことは、皆々様ご存知の通り。
実際、ブンカでもソウル一点集中が問題になってる韓国から日本にアートマネージメントを学びに来ている将来のエリートさんたちは、旧与党&霞ヶ関システムの「地方に厚く分配する」というやり方を真剣に学ぼうとしている程です。これ、ホント。
もとい。長くなってめんどーなんで、あとは先週に行われた部会の様子と、メンバーを以下に貼り付けますので、勝手に見て、いろいろ思って下さいな。このページの動画、まだ見られるのかしら。もう時間切れになってたら、スイマセン。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/commu/1294421.htm
で、こちらのPDFファイルがコミュニケーション教育推進会議メンバーリスト。
推進会議メンバーリスト.pdf
さあああ、音楽関係者の皆様、このリストをどうご覧になるでしょうか。
我々音楽業界の代表は、ぶっちゃけ、2名ですな。音楽系アートマネージメントを代表する我らが楠瀬氏は、津田ホールのプロデューサーというよりも、地域創造の音活コーディネーターをかなり初期から務めているベテラン、という意味なんでしょう(数年前に学校組織の一部になった津田ホールなので、「教育」という意味で他のコーディネーターさんたちよりも適当だろう、ということなのかしら)。
もうお一方は、我が中央区の隣は港区を中心にNYの演奏家によるアウトリーチなどを実践なさっているNPOの代表さんで、ボストンはNECの出身の管楽器奏者さんです。つまり、かつての厄偏庵居候で今は栗東さきらで頑張ってる甲賀のI嬢なんぞが眺めてきたことを、演奏家としていろいろ学んで東京に戻ってきた方、ということなんでしょう。アートマネージメント系というより、役者さんやダンサーさんなどに近いパーフォーマー・メンタリティ、演奏家の代表、ということかしら。偉い指揮者さんなんかが入るよりはよっぽど現場を知っているから、良かったといえましょう。なかなかパワフルな方らしいので、口八丁手八丁の演劇組に混じって異文化間喧嘩やって、音楽業界に何かもぎ取ってくる突破力を期待したいですね。
というわけで、小生も今後は出来るだけ傍聴に行きたいと思っております。選挙がなく周囲の雑音に右往左往することない3年の間にどこまでやれるか、まあ、当面は我々の代表をじっくりと見守っていくとしましょう。




